1999年
 7月1日
  今日から7月。ついに地下鉄のフリーパスが解禁。というのも、ボストンの「T」と呼ばれるsubway(一応地下鉄だけれども、ところによっては地上を走っていたり、路面電車だったりする)は、ほとんどの路線が85セントでトークンというコインを買って、改札にそのトークンを入れてホームに入ればどこにでも行ける乗り放題なのだが、僕の住むBrooklineの駅は無人駅で、ボストン方面に向かう電車に乗るときにプラス15セントの1ドルを運転手の横にある運賃箱に払わないと乗れないことになっていて、おまけに1ドル札では受け取ってくれない。1ドルコインというめったに街では見かけないものを、駅の両替機で準備しておかなければならない。これが結構めんどうなのだけれども、「T-Pass」という27ドルで1カ月乗り放題のフリーパスであれば、85セント区域と同じように扱ってくれるので非常に便利になるのだ。しかし、このフリーパス、なぜか月初めと月終わりのそれぞれ4日間しか発売されないので、5日に今月のパスを購入しようと思っても後の祭り、である。
  そして、まさにその「後の祭り」に陥ってしまった6月だった。先月の「できごと」でもわかるように、6月4日まで親切な方の家にやっかいになっていたのだが、その方の親切はここに窮まれりで、「自分は旅行に行っているのでT-Passを使うこともないから、アパートさがしでボストン中を歩き回るのに持っていると便利なので使いなさい」とT-Passを貸してくれていたのである。そして、アパートに移っていざPassを買おうと思って駅に行くと・・・前述の制限が判明してしまったのだ。それ以来、長〜い1カ月だった。何事も、事前の下調べが大切なのであった。

1999年
 7月2日
  となりのラボは僕がこちらに来たときにはガランとしていたのだが、7月1日付でカリフォルニアのCalTechから新教授が赴任し、先週から引っ越しが始まっていた。ここのところ荷物の運び入れや、部屋の改造などでなかなか騒々しい日々が続いていたのだが、さすがにこの日に合わせるようにあらかた研究ができる態勢にはなったようだ。アメリカの大学は、研究室の主である教授がその大学を去ることになれば、そこに所属していた大学院生やポスドクも、こぞってその研究室を去らなければならないという、非常にシビアな世界である。そしてとなりの研究室は、カリフォルニアからこぞって引っ越してきた口で、総勢12名がいっきにMITの所属となった。パーティー好きの我がラボのメンバーが、この願ってもない飲む機会を逃すハズもなく、午後8時から合同の飲み会となった。こちらもなかなかの多国籍軍なのだが、となりも負けず劣らず、香港、フランス、インド、カナダ、ポルトガル、スペインとなかなかの顔ぶれである。ところで、僕と香港人の顔の赤さを酒の肴に、アジア人とヨーロッパ人の違いを語るのはよしましょう。僕たちは決してすべてのアジア人を代表してはいませんよ。

1999年
 7月4日
  Independence Dayの今日は、ボストン郊外のFoxboro Stadiumでサッカーの試合をダブルヘッダーで観戦した。1試合目は午後4時半から我らがボストンのプロサッカーチーム「New England Revolution」の第16節の公式戦で、相手はNew York 。そして2試合目は、現在アメリカで開催中の「Women's World Cup Soccor」の準決勝で、午後7時半から世界ランキング1位のノルウェーと、同じく2位の中国の試合が組まれていた。つまり、プロサッカーの試合が、ワールドカップの前座というイベントだった。
  日本にいるとアメリカはサッカー不毛の地のように思いがちだけれど、会場につくやいなやアメリカでのサッカー熱にまさに圧倒されてしまった。すごい数の人が見に来ている。ときどきテレビでワールドカップの番組を見ると、どの試合も結構観客が入っているのに感心していたのだが、こりゃ本当にアメリカにも確実にサッカーファンが浸透し始めていることを再認識した。なにしろ最終的に観客は4万人にもなったのだから。あとは、プレーヤーのレベルアップだな・・・とはRevolutionの試合後の感想。でも、一応3対2でRevolutionが勝ち、それなりに盛り上がったので良しとしよう。
  アメリカでは、men's national teamよりwomen's national teamの方が強い、というのが多くの人の一致した意見で、女子サッカーのレベルはかなり高い。それを証明するかのように、今日カリフォルニアで行われている準決勝で、優勝候補のブラジルを破って決勝に名乗りを上げている。リアルタイムでオーロラビジョンにその勝利の瞬間が映し出されたときの、地面が持ち上がってしまうような大歓声は、独立記念日と相まってかそれはものすごかった。アメリカの女子サッカーがなぜ強いのかという理由は、いろいろとあげられるのだろうが、おそらくサッカーを始める小学生の頃から高校生の頃まで、男子と一緒のチームで同じように試合に参加していることが効果を上げているような気がする。ま、それも女子サッカーが強くて、その人気がものすごいからなのではあるが。
  そしてもうひとつ、ものすごいものを見たと思ったのは、2試合目のワールドカップで見た、中国人の愛国心と12番目のプレーヤーと言われるサポーターの力である。下馬評ではここ10年の間トップの座を明け渡すことのなかったノルウェーが有利というものであったが、試合が始まると中国の完璧に組織化された試合運びと、圧倒的な運動量の前に、誰の目にも中国の圧勝は明らかだった。そして、3000人ほどの中国人サポーターの、会場を支配してしまうほどの大音量の声援が、プレーヤーの背中を押しているのも目に見えるようなほど、明らかに中国は生き生きとプレーしていたのが印象的だった。結果は5対0でまさに中国の圧勝。あまりの完成度の高さに、決勝では敵になるはずのアメリカ人も、試合が終わった瞬間には全員総立ちの拍手の嵐だった。中国人サポーター達が凱歌を歌い始めたときには、さすがにアメリカ人も対抗して「USA」を連呼していたけれど。
  試合終了の9時すぎから、独立記念日名物の「Fireworks(花火)」が打ち上げられ、惜しげもない連発花火にちょっと感動。テニスのウインブルドンでも男女共アメリカ勢が優勝し、盛り上がる材料に事欠かない独立記念日初体験となった。

1999年
 7月5日
  日本と同じように、日曜と祝日(独立記念日)が重なったので、今日は振り替え休日である。が、我がラボはいろいろとせっぱ詰まった事情もあって、日曜も明かりが点いている研究室であるから、当然今日もメンバー勢ぞろい。ところで、今日のボストンは記録的な猛暑で、気温は100度!を記録した。といってもアメリカは華氏表示だから、摂氏でいうと37.8度ということになる。摂氏で言われても十分すぎるほど暑いけれど、「100度」と言われるとそれだけで暑い。そこで、だれかれともなく「暑いからビーチに行こう」ということになった次第。研究室は冷房が効きすぎるくらいに効いているから、実は暑さなんて感じていなかったのだけれど。
  研究室から地下鉄を乗り換えること2回。REVERE BEACHに到着すると、さすが休日なだけあって、かなりの人がビーチにあふれていた。突然の展開なので、僕は当然海水パンツなんてものは用意していなかったのだが、なぜか他のメンバーはちゃっかり用意していたりする。おまけに気温は100度だから、砂浜の上はそれこそ焼ける様な熱さで、とても持ってきたバレーボールやフリスビーで遊ぼうなんて気にはならない。そこで、初めは僕に気を使ってか波打ち際で遊んでいた同輩たちは、業を煮やして海へと飛び込んで行ってしまった。ひとり取り残されて呆然と立ちつくしていると、突然背後に人の気配を感じ・・・次の瞬間には、みんなに担がれて海へと放り投げられていた。普段着のままで。「一度濡れてしまえば、あとは気にならないから。」って、確かにあきらめはつくけれど・・・。いくら暑いからって、結局研究室に戻るまで、ひとり乾かずじまいだったじゃないか。財布は濡れてコインは見事にさびてるし。ま、気さくな仲間たちの一面が見れた(けがした子供を手当てしたり、迷子のお母さんをみんなで探したり、遊んでいたら子供たちがなぜか集まってきて一大レクリエーションスクールのようになったりした)ので、良しとしよう。

1999年
 7月6日
  午後8時からフリーのオーケストラコンサート「ボストンポップス」があると言うので、研究室から10分とかからない野外コンサート場「ハッチシェル」へと向かった。ボストンポップス・オーケストラは、ボストンシンフォニーオーケストラが夏の間シンフォニーホールを使わないので、その代わりにシンフォニーホールの1階のフロアの全席を取り払って丸テーブルと椅子を置き、軽食をとりながら音楽が聴けるイベントを行っている。そして毎年7月4日は、このハッチシェルと呼ばれるまさに貝が口を開けたような形をしたホールで、ボストンの独立記念日のメインイベントとして無料のコンサートを行っていて、それが終わったあとの午後10時半からの花火をここから眺めるのが通らしい。しかし、今年はどうしたことか7月3日から7月8日までの5日間にわたって無料コンサートがハッチシェルで開催され、しかもすべて異なった曲が演奏されるということだった。今年の4日には、シンフォニーオーケストラの小沢征爾さんがレッドソックスのユニフォールを着て特別出演し(25年目にして初めて)、ポップスのキース・ロックハートとの競演が話題を呼んでいた。
  午後7時すぎには、ボストンに来てから初めてとなるサンダーストームを経験し、こりゃ今日のコンサートは中止だなと思ったのもつかのま、15分ほどで雨が止み予定通りコンサートは行われた。しかし会場に行くと、ものすごい雨だったのでところどころに水たまりが出来ていて、観客も水たまりを避けるように心なしかまばらに陣取っているようだった(ハッチシェルの前の芝生が観客席で、めいめいがビニールシートをひいて寝そべったり、さながらピクニック気分で集まっている)。ざっとあたりを見渡すと、真ん中のベストポジションと思われる場所に大きな水たまりが出来ていて、そこはまだ誰にも陣取られていなかった。そこで我がラボの化学班はさっそく水の吸い取り作業に取りかかり、ラボから大量に持ってきたゴミ袋をそこに敷き詰め、なんと15分前に来たにも関わらず前方ど真ん中のベストポジションに落ち着いてしまった。いやあ、たまには良いこともあるもんだ(サンダーストームのおかげ)。
  肝心のコンサートの方は、40歳になったばかりのキース・ロックハート(日本にも何度か公演に行っている)が登場すると思いきや、似ても似つかない90歳になろうかというハリー・ディクソンの指揮だったので初めはがっかりだったが、これが意外やものすごく観客を引き込むのがたくみで、楽しい2時間を堪能した。途中、飛行機とパトカーの音が指揮者を無視して入ってくるのが、難点ではあったが。そして、最高に盛り上がったところで、舞台の上からアメリカ国旗がばたんと降りてくると、もうかなりな興奮状態で(僕ではなくてまわりが)、とてもクラシックのコンサートとは思えない雰囲気・・・。連日の演奏にも関わらず、アンコールを3曲やったのにもプロ魂を見る思いで感動。明日も来ようかと思わず思ってしまった。

1999年
 7月7日
  日本では今日は七夕だけれども、アメリカではもちろんそんな日だとは誰も知らないようで、由来やら風習やらを説明したらなかなかに興味を示していた。
  さて、今日はアメリカで初めて試薬を注文した。そんなことは研究者としてニュースでもなんでもないことなのだけれど、これがなかなかこちらの欲しいものを欲しいだけ正確に、しかも見えない相手に電話で伝えることは、結構大変なのだ。しかし、こちらに来てトラブルが頻発していることもあって、電話での会話にも最近は苦手意識がなくなりつつある。ラボの唯一の電話器が僕のデスクの目と鼻の先にあって、電話がかかってくるとどうしたって僕が最初に取らないといけないのだが、最初のうちはなかなか手が伸びなかったけれど、最近は電話の最後に「Bye-bye!」と言うのにちょっと快感を覚えているので、まっさきに取ったりしている。おかげで、込み入った話のときに、こちらが要領を得ない受け答えをするもんだから、電話の向こうの人に迷惑をかけていたりする。ま、というわけで日本からラボにかけるときも、安心して電話してください。まず、僕がとりますので(きっぱり)。
  ところで試薬の注文だけれども、初注文と言うので、誰や彼やとメモを用意してくれて、なかなかの一大事となった。電話をかけて、電話口に出てきた人の声が親切そうな響きで、まずは一安心。そこで、順番に聞かれるはず(!)のことを答えていったところ、聞かれていたことと答えた内容に辻褄のあっていない事が判明し、慌てて最初からやり直し(ようするに良く聞いていないことがあからさま)。どうにかこうにか伝えたいことをすべて伝え終え、ついにあの瞬間が・・・「Bye-bye!」。またひとつハードルをクリアした感じ(って、そんな大それた事ではないけれど)。

1999年
 7月8日
  今日は1カ月前に予約していたミュージカル「RENT」を見に(20人以上の団体料金ということで15%引きとなり、24.5ドルというお徳な料金)、ラボの面々とその連れ総勢21名で、午後8時にShubert Theatreへ。ふだんはTシャツにショートパンツ姿しか見たことがない面々が、一様にビシッとおしゃれに装って現れたのにまずびっくり。でもまわりの観客はそれ以上に着飾った人で溢れていて、いっきに雰囲気にのまれ始める。さらに、向かいのWang Centerではホイットニー・ヒューストンのコンサートが行われるらしく、その一帯がそんな人で溢れかえっていた。
  そもそもミュージカルを見るのは初めて。どんなものかなあと、始まるまでは期待と不安が交錯していた。芝居そのものはアメリカ文化が凝縮したようなラブストーリーで、英語が細かいところまで分からないこともあって100%楽しめなかったけれど、それぞれの俳優の歌唱力に圧倒されっぱなしで、3時間が過ぎた。笑いもあり、涙もあり、観客も一体となってなかなかのエンターテインメントだった。アメリカへのミュージカルツアーを、日本の旅行会社が企画する気持ちが、ちょっとだけ分かった気がした。

1999年
 7月9日
  午後5時から化学系の主催でバーベーキュー大会「Chemistry Picnic」が行われた。なんでも、今年7月から3人の新教授を化学系に迎えたので、その歓迎会だそうだ。しかも3教授のうち2人は35歳という若さで、今日言われるまで僕はてっきり学生かと思っていたほどだ。
  総勢250人ほどが、18号棟前の芝生の上に勢ぞろい。そこで初めて日本から来ている人が10人いることを知った。日本ではこんなときは芝生の上で心地よく一杯、とビールでの乾杯の音頭といくところだけれど、ここマサチューセッツ州では屋外での飲酒は一切禁止されている。ということで、めいめいはジュースを手に、次から次に出てくる肉をひたすら口に運ぶことに。もうこれ以上入らないと思い始めた頃、な、なんと、3教授それぞれの名前がMITのロゴの下に描かれた大きなケーキが3つも登場。それぞれの教授によるケーキカットの後、配られ始めた。さっきまで腹が張っていたと思ったのは錯覚だったのか、ケーキを見るや同じラボの女性2人に引き連れられて真っ先に列に並び、これまたアメリカンサイズにカットされたケーキを前に躊躇なく口に運んでいた。しかし・・・忘れていた。アメリカのケーキの半端でないあの甘さを。おかげでまた肉を食べたくなって、相変わらずの大食漢ぶりをラボのメンバーに知られるところとなってしまった。

1999年
 7月11日
  今日から1泊2日でラボのメンバーとその家族、総勢15名でキャンプに出かけた。目指すはアメリカ東海岸最北のメイン州のホワイトウオーター。メイン州は巨大なロブスターで有名な場所だけれど、アウトドアのメッカとして1年を通してにぎわっているところでもある。僕は、何かと世話になっているドイツ人ポスドクのウィルムとその奥さん、そしてドイツから夏休みで遊びに来ているいとこの乗るドイツカー(車はアメ車)に便乗して、一路北上。約5時間の長旅である。
  このドイツカー、彼らの母国語であるドイツ語三昧の中、時折僕のために英語を話してくれるのかと思いきや、なんとなんと道中一度たりともドイツ語で言葉を発することがなかったのには驚いた。5日前にアメリカに来たばかりといういとこが、一番英語がうまいということもあったが、ドイツの大学教育の底力を見たような気がしたのは考えすぎだろうか。そこで一番盛り上がったのは、日本人はどうして誰も彼もが英語が下手なのかという話題(僕のせいか・・・)。いとこは、お姉さんが横浜に住んでいるらしく、日本人と接する機会も多かったらしいが、一生懸命話しかけてくれるのだけれども、何を言っているのか一度聞いただけではわからないということを強調していた。文法がまるっきり違うことや、発音の仕方が特殊なことも知っての上で、「机の上で勉強しすぎなんじゃないの」という一言が、とても的を得ているような気がした。日本人にとって英語はやっかいな試験科目のひとつであり勉強の対象であるが、まぎれもない生きた言葉であることをどこか忘れているのかもしれない。その場では、一所懸命発音の仕方の違いや文化の相違による発想の違いなど、弁明をしてみたけれど、もちろんぺらぺらと英語を不自由なく話す日本人もいるのだから、根本的にどこかで思い違いをしているんだと思う。ま、それが分かれば僕も含めて苦労しないんだろうけれど。
  夜のキャンプファイヤーでは、恐怖のクイズゲームがあった。ぐるっと輪になってひとりが出したクイズに順番に答えていくもので、答えのわからない人がひとりになるまで、ぐるぐるとまわっていく。たとえば「Winddy likes Massachusetts, but doesn't like Main. And she likes beer, but doesn't like wine. She hates television, but loves books.」といった具合にスタートし、この例文にならって次々にある法則に合致するように例文を発表していくというもの。多国籍グループの我がラボだけあってなかなか苦労したけれど、かなりの盛り上がり。一見単純なゲームだけれど、これがなかなかお酒の力も手伝って楽しい夜を過ごせた。ちなみに、メイン州はマサチューセッツ州とは違って屋外での飲酒禁止などという法律はない。

1999年
 7月12日
  キャンプ2日目は、今回の目玉であるrawfting(いかだ下り)。Kennebec riverの激流を12マイル(19.2km)下るもので、実に3時間半の死闘を味わうことが出来る。ガイドのおじさんを含めて9人が乗ったボート(いかだと言ってもゴムボートだったりする)が、ダムの直下に作られたスタート地点から出発すると、いきなりの激流。さんざん直前の講習で、昨日は何人の人がほうり出された何て話をするものだから、初めは楽しむどころか恐怖の塊だった。しかし、ゴムボートというものは変幻自在に形を変えられるものだから、たくみに川のしぶきを吸収してくれて、よほど転覆でもしない限りほうり出されることはないとわかってからは、ようやくまわりの景色も見え始め、しまいにはこの波はちと迫力がないな、なんてみんなで言い出す始末。途中穏やかな流れの場所では、自ら川に身を投げ出し、流れに任せて自然を満喫した。川で泳ぐのも小学生以来だ。服を着たままというのがちと違うけれど。とにもかくにも、これぞアメリカの大自然を満喫。rawftingについてはこちらで。

1999年
 7月13日
  ボストン市民が待ちに待ったメジャーリーグ野球の祭典「オールスターゲーム」がやってきた。アメリカ人と言えどもちろん野球なんて退屈なだけだと、嫌っている人もたくさんいるし、実際に僕のまわりでも何人か知っている。しかし、大リーグのオールスターは、3日もやる日本とは違って年に1回きりで、おまけに30チームあるので地元には30年に1回しかまわってこないお祭りとあって、街は僕が到着した時にはすでにお祭りモードに突入していたし、1週間ほど前からは地下鉄に乗ると気分を盛り上げるように、ここがオールスターの行われるフェンウエイパークですなんていうアナウンスがされていた(ちなみに最寄りのKenmore駅は僕のアパートの駅から所要時間10分ほどの3つめの駅で、毎日の通勤途中にある)。
 そして、このオールスターの開始時間が午後8時だったので、思わず実験を急いで終わらせて、30分遅れで行ってきてしまった。フェンウエイパーク(フィールド・オブ・ドリームの舞台でアメリカ最古の球場、ボストン・レッドソックスの本拠地)に着くとちょうどセレモニーの最中で、カナダ国歌が歌われているところだった(大リーグには2チームカナダのチームがある)。そして次にアメリカ国歌が歌われ、最後の盛り上がりが絶頂に達して歌声が途切れて拍手が始まろうとしたその瞬間・・・ゴーーーーーと轟音とともに戦闘機がほとんど球場すれすれを飛び去って行った。一瞬なにが起こったのかと思ったほど、ものすごい音とその迫力に圧倒されてしまったけれど、直後のあちこちから聞こえてくる赤ん坊の泣き声で我に返った・・・。もちろん、球場には入れなかったけれど、外ではマグガイアやソーサのホームランボールを取ろうという人で溢れていて、まさにお祭り気分。おまけに地元ボストンのエース、マルチネス(すでに前半だけで15勝していて久々に30勝ピッチャーの誕生かと騒がれている。今回のオールスターゲームのMVP)が先頭打者から4番まで(3番ソーサ、4番マグガイア)連続三振に切って取ったものだから、それはもうすごかった。  けれども、会場の外では打者のアナウンスと時折起こる歓声しか聞こえてこないので、1時間ほどで球場を後にして家でテレビで見るかなと思ってアパートへと。駅を降りるとなんとなく暗い気がしたけれど、アパートの前の交差点でびっくり。なんと、信号のランプがまったく点いていなくて、ほとんどパニック状態で警官が暗い中、交通整理をしていた。いやな予感と共にアパートに向かうと、案の定アパートも停電中で、どうやらここら辺一帯が3時間前から停電状態でいつ回復するか分からないとのこと。テレビどころか電気が点かないのではしょうがないので、迷わず球場に逆戻りと相成りました。しかし、停電なんて小学生のときに経験して以来かな。

1999年
 7月16日
  オールスターゲームの興奮もさめやらない(といっても僕は会場の外で歓声をきいていただけだけど)本日、今度は球場の中で生でレッドソックスの試合を見ることが出来た。今日はこちらに来てから知り合った方の誕生日で、仲間たちの「球場で誕生日を祝おう」という呼びかけに一緒に混ぜていただいたもの。BLEACHERという外野席で18人の日本人が誕生ケーキ片手にレッドソックスを応援した。女性の方々は浴衣姿で、我々もうちわを持っての応援だったから、もしかするとテレビ中継なんかで紹介されてるかもなあ、なんて思いながら。でも、本当にグッドな企画でした。
  ところで、今日はレッドソックスは負けちゃったけど、なんでも元横浜の大家(おおか)というピッチャーが、マイナーリーグで今季開幕から10連勝という記録を引っ提げてレッドソックスにメジャー昇格をすることが決まったそうな。めでたい。

1999年
 7月17日
  実は昨日から大学入学以前(1年前)からの友達が、はるばる訪ねてきてくれている。友達そっちのけで野球を見に行っていたのは・・・ま、おいといて(T君ごめん)。まずボストンの観光ということで、ボストンの代名詞にすらなっている名所、ハーバード大学に出かけた。みやげ物屋で目にするTシャツのロゴは間違いなく「Harvard」である。「MIT」ものはMITの生協でしか見たことがない。その1636年創立のアメリカ最古の大学、ハーバード大学へは、こちらに来て2カ月が経とうとしている今日まで、実はまだ一度も行ったことがなかった。
  実際に見ての感想は、観光客だらけで大学の雰囲気を今一つ感じることができず、ちょっと期待外れだったけれど、今は夏休みの最中なのでそれも仕方ないのかもしれない。また、10月頃に来てみるともうちょっと違う雰囲気が味わえるのだろう。10月頃にどなたかボストン観光を企画されている方、ご一報ください。

1999年
 7月18日
  ボストン観光2日目はT君たっての希望で「ボストン美術館」へ。日本ではそう呼ばれる美術館だが、正式名称は「Museum of Fine Arts(MFA)」で、地元の人もMFAと普段は言っている。ちなみに各国のパンフレットでボストン美術館と表記しているかどうかをチェックしてみたら、中国のものだけそう書いてあった(正確にはボストンらしき漢字が書かれていた)。
  この美術館はもちろん世界に知られたボストンの誇る芸術の宝庫だけれども、ここを訪れるのは今日が実は初めて。おかげでボストンを案内するつもりでいたのに、この美術館がどこにあるのかわからず、右往左往する始末だった。そして発見・・・なんとアパートから20分と離れていない場所にあるではないか。今までなんてもったいないことを。
  この美術館の目玉は、モネやルノアール、ゴッホ、ミレーなどあげればきりがないけれど、50万点にのぼる浮世絵などの日本美術は日本国外最大を誇っている。また、ハーバード大学との協同発掘調査によって収集された5000年前のエジプト美術も必見。ということで、丸1日をこの2つのセクションを集中的に見ることで2人で合意し堪能した。入場料は10ドルだったが、美術館会員になると年会費60ドルで見放題となるとのこと。絶対会員になろうと決意した。
  追記・水曜日は午後4時から午後9時まで無料で開放されることが判明。ん〜、むずかしいところ。

1999年
 7月19日
  ボストンで生活を始めてそろそろ2カ月が経とうとしている。にもかかわらず、まだ一度も電気代を払ったことがない。アパートの家賃に入っているわけではない。誰かがうれしいことに代わりに払ってくれているという話も聞いていない。ということは・・・そのうちプツッと電気を止めらるんじゃないかという不安が、にわかによぎる。そこで、契約をしているはずの電気会社に連絡。
  こちらの公共料金は、毎月末に請求書が郵送されてきて、請求された金額を小切手で請求元に郵送することになっている。その請求書すら届かないのは果たしてどういうことか、と思ったら、同じ部屋に以前住んでいた人の契約が切られていなかったらしく、その人宛に毎月請求書を送っていたということだった。その人は当然料金を払っていないだろうから、やっぱりそのうちプツッと電気が切れる日が来るところだったことが判明。先月分からさかのぼって、早速請求書を送ると言われた。しかし、僕の登録はどういう扱いを受けていたのだろうか。なんとも釈然としないけれども、そこら辺が何となくアメリカなんだと、思えなくもない。

1999年
 7月20日
  普通は銀行の口座を開くと1週間ほどで送られてくる「小切手帳」が待てど暮らせど送られてこない。最初は研究室の住所で登録をしたので、アパートが決まった時点で住所変更をしているため、その分遅れていると思っていたのだが、1カ月たった時点で問い合わせてみたところ、住所が変更されていないのでまだ小切手を作製していないことが判明。今度は目の前でコンピューターの端末から住所を変更してもらった。ちなみに、小切手は100枚ほどが一つにつづられていて、あらかじめ銀行側が所有者の名前と住所を印刷している。
  しかし、その後も送られてこないので、再び銀行の窓口で問い合わせたところ、「注文したときにどうやらコンピューターが機能していなかったらしくて、お前のチェックはまだ発送されていない。来週末には届くと思うのでもう少し待つように」とのこと。その来週末とは、すでに先週のことで、またまた今日は問い合わせとなった次第。なかば顔見知りと化しつつある店員に話しかけると、今度はなにやらプリントアウトした書類を見せられ、「今週末には絶対に届くから。」とあまりとりあってくれなかった。しかたがないので、すごすごとその場をあとにしたけれど、絶対もう一度ここに来るはめになりそうな予感。知り合いの日本人は「銀行の窓口には口座を作ったとき以来行ってないなあ」なんて言っていたのに・・・。

1999年
 7月23日
  昨日黒板に大きく書かれた文字を見て思わず小躍りしたのにはわけがある。5月まで所属していた研究室で、同じイベントが行われていてふとそれを思い出したからだ。その黒板にはこう書かれていた。「明日正午、オビーの誕生日を祝います。全員集合」
  このラボは有機合成実験をメインに行っている研究室なので、基本的に室内で飲食は出来ないことになっているが、研究室の一隅に飲食可の小部屋がある。ふだんは3人も入れば結構窮屈に感じるのだけれども、今日はその部屋に全員集合。オビーは大学院生だが既に結婚していて子供もいるナイスパパで、ラボでの実績も一番という人気者だ。そして期待のバースデーケーキは、本格派チョコレートケーキ。さすが世界の味を知っている我がラボの面々は、舌が肥えている。このケーキ、アメリカに居ることを忘れてしまうようなヨーロッパ仕込みのチョコレートが抜群の美味だった。ドイツ人も絶賛していたから、間違いない(と一応フォローを入れないと、信用してくれなそうなので)。次は誰の誕生日が近いのかな・・・と早くも次にも期待。

1999年
 7月24日
  今日は昨日までの暑さとは打って変わって、なかなか過ごしやすいな・・・なんて、ちょっと油断したのがいけなかった。夕方ごろ、同じラボのブラジル出身のロッドとアルゼンチン出身のエルナンに誘われて、サッカーの練習に参加したのだが、なにしろ毎週一回のバレーボールの試合とはその運動量がまるで違う。おまけにさっきまで過ごしやすいと思っていた気温も、照りつける太陽の陽射しとともに急上昇していたようで、もう暑いのなんの。ものの20分もしないうちに、バテバテ状態となり、もう限界に達しようかという状況だったが、ここでリタイアすると日本のサッカーの弱小ぶりをますます世界に知らしめてしてしまうに違いない(?)、との一心の思いでひたすらボールを追いかけ回した。
  しかし、何事も無理は禁物。練習終了後ラボに帰ると、汗でびっしょりになった姿を見て、口々に「何事があったんだ」と聞かれる始末。さらには疲れすぎて、中断していた実験を再開する気力が沸き起こるまでに、実に1時間以上を要してしまった。体力には自信があったけれど、精神力だけで体を動かすと後がきつい。要するに年かな。

1999年
 7月26日
  先週末までに届くはずだった小切手帳が、結局アパートに届かずじまいだったことから、またまた銀行の窓口に出向くはめになってしまった。しかし、月末で各種料金の支払いが迫っているし、口座を開いたときにもらった仮の小切手はすべて使い切ってしまっていることから、ここは緊急事態ということで、いつもの銀行ではなくボストンで唯一日本人の行員を抱えているハーバードスクエアの支店に赴き、事情を説明して対処してもらうことにした。
  朝一番に出向いたつもりが、既に日本人の先客がいて30分ほど待った後、いよいよ事情説明。行員はすぐに状況を把握してくれてコンピューターで何やら調査を始めてくれた。やっぱり日本語が通じるのは良いと、思わず思ってしまうのはまずいのかな。すると、いつも行っている銀行の窓口に、先週の水曜日には届いているはずだという。アパートに届けてもらうことになっていたのに、またしても何かの手違いがあったらしい。ま、いずれにしても今度こそ小切手帳を手に入れられそうだ。
  さっそく大学の近くの銀行の窓口に直行して、小切手帳を受け取ろう・・・としたが、なにやら行員があっちに行ったり、こっちに来たり。見あたらなくて右往左往しているらしい。ついさっき電話で確認したばかりなのに。するとそこへ別の行員がたまたま通りかかり、必死に探している行員と一言二言会話をしたかと思ったら、すぐ目の前のテーブルから四角い物体をこちらに差し出した。「すぐに渡せるように、ここに置いといたのに」って、電話を取ったあなただけがわかっていてもしょうがないような・・・。とにもかくにも、2カ月目にしてようやくアメリカで生活するために必須のアイテムを獲得したのであった。

1999年
 7月30日
  このラボでは生化学実験のパイオニアである僕は、ふだんの合成実験の他に、いろいろと実験を始めるに当たっての準備に時間を割かなければならないことも多い。今日は、ある実験器具をどこからともなく発見してきたまでは良かったが(スタートしたばかりの研究室はとかく研究費が十分ではないので、欲しいものがなんでも買えるわけではなく、まずは汗を流すことから始めないといけない)、なんともうまく機能しないので修理してもらうことにした。しかし、どこに問い合わせればよいかがわからない。まわりの同輩は「それ何」と聞いてくるくらいだからあてにはならないので、他のラボのメンバーに聞くことに。共同研究先のラボまで行くにはちと遠いし、電話で聞くには事情が込み入りすぎてうまく伝えられるか自信がない。そこで、生化学系のラボとうまくコミュニケーションが取れていた方があとあと都合が良いので、新たな友達の開拓を兼ねて、足を踏み入れたことのないラボにおじゃましていろいろと情報を仕入れよう、ということになった次第。
  ラボのある2階から生化学系の4階に上がっていくと、さすがにちょっと雰囲気が違う。まずは、気さくそうな人を探して協力を仰ごうと、きょろきょろと怪しげに廊下を歩いていた。すると何やら巨大なフードを研究室に運び入れているシーンにでくわした。見るともなく見ていたのだが、突然それを注文したとおぼしき中国人らしき人から「これいいでしょう(たぶんそんな感じのことだったと思う)」と声をかけられた。天のおぼしめしとはこのことかとばかりに、ひととおり世間話をしたのち、「実は生化学実験用の機器のことで聞きたいことがあるんだけれども」と話を切り出した。あとで良く考えると、なんとも不思議な話の切り出し方だったけれど、ま、良しとして。突然話しかけてくるくらいの人だから、それは親切の塊のような人で、もっと詳しい人がいるからと大学院生を紹介してくれたりして、十分すぎるくらいに目的が達せられた。これで何かあればここへ来ればなんとかなりそうだ。


最終更新日:1999年 8月 11日
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