1999年
 8月2日
  待てど暮らせどいつまでたっても電気会社から請求書が送られてこない。請求書が来ないのなら料金を払わなくてもこちらの責任ではなさそうだが、そうは言っても、月も変わったことだし突然電気を止められやしないかと、びくびくしながら暮らしている。こんな状況は精神的にとても良くはないので、仕方なく今日は電話ではなく電気会社の窓口に直接乗り込むことにした。
  窓口でひととおり状況を説明すると、受付のおばさんは別に驚く風でもなく、「それなら中に入れてやるから担当の人に相談しなさい」と、ロックを解除してドアを開け、中に進むように促された。中に入ると担当のおばさんがコンピューターとにらめっこをしている最中だったが、もう一度窓口で言ったことと同じことを説明し、どうなっているんだと詰め寄ってみた(自分なりに精一杯怒ってみたつもり)。すると担当のおばさん、これまた驚くでも同情するでもなく、ふ〜ん、てな感じで再びコンピューターとにらめっこを始め、3分ほどして一言、「請求書は送られてないよ、まだ。発送記録が残ってないからね。」これだからなあ、アメリカは。ものの3分で請求書のありかまで分かってしまうネットワークを持っていながら、どうして請求書を実際に顧客に確実に送れないんだろうか。何だか慰謝料請求の裁判でも起こしたら、勝ちそうな気がするけど、あまり聞いたことがないからやめとこう。
  これで一安心・・・は出来ないのがアメリカだから本当に疲れる。実際に請求書が送られてくるまでは。果たして、続きはあるのやら。

1999年
 8月3日
  こちらに来て2カ月。そろそろ髪の毛も伸びてきて、さすがに散髪をしなければと先週あたりから思い始めていた。しかし、髪を切るときに必要な英語なんて全然知らないので、不安指数はかなり100に近い。そこで、知り合いの日本人に散髪をどうしているかと聞いてみた。すると、なんとも大胆な発言が。「こっちで床屋に行ったらどうされるか分からないので、自分で切ってるよ。」こちらに来て、ことごとく予想だにしないできごとに遭遇しているが、またまた思わぬ展開。しかし、僕にそんな技術はないので却下。腹を決めて大学の構内にある理髪店に行くことにした。しかし、なんの予備知識もないのも不安なので最近その理髪店で散髪をしたとなりのラボのドイツ人に様子を聞くことに・・・。「すぐ終わるから大丈夫」って、別にこれから手術を受けに行くんじゃないんだから、そういう答えを期待したんじゃないんだけど・・・。しょうがない、煮て喰われるわけではないので、とにかく行ってみよう、ということで一路理髪店へ。
  構内には理髪店が2店舗入っているが、一方はお客さんが一杯で、となりのラボのドイツ人が勧めるもう一方は待ち客ゼロ。人気がないから早いのかな、と思いつつおそるおそる店に入ると、入れ墨をしたごっついお兄さんが一人で客の髪の毛をカットしていた。どうやら終了直前らしく「ちょっとだけ待て」という指示。カットされている客の髪型を見てみると・・・まあ、普通なので安心、安心、安心(となかば暗示をかけて)。
  いよいよ自分の番になってとりあえず「I'd like a trim.」と言ってみた。「OK」・・・通じた。次にどう切るのかときたので、「I just need a trim.」(全体を)と言うと、「OK」・・・通じた。さらに、どのくらい切るかと聞いてきたので、夏だからなるべく短くしてくれと言ったら、今度はけげんな表情。なんか発音が間違ったかな。するとごっついお兄さん、優しく微笑みを浮かべながら「それはtrimじゃなくてshortですぜ、だんな」とのお達し。とにかく短くなればなんでもいいから、それでお願い、と伝えるとおもむろにバリカンを取り出し、早速髪を刈り始めた。普通はバリカンというのは、うなじの少し上あたりを刈るために使うものだと思うのだけれど、しばらくするとこのバリカンが、頭のてっぺんの方まで微妙に深さを変えながら上ってきた。ありゃ、もしかして坊主にされちまうんだろうか。でも、始まってしまったからにはしょうがない、それもホームページのネタになって良しとするか。と、観念して自分の髪の毛の成り行きを見守ることにした。結局、このお兄さん、10分ほどですべてバリカンと櫛をたくみに駆使して髪の毛を整えてしまった。もちろん、坊主にはならなかった。これで12ドル。ん〜、なんとなく客がいないのが分かる気がする。ま、とにもかくにもまた2カ月は髪の毛を気にせず生活できるので、めでたしめでたし。

1999年
 8月4日
  アメリカでは、許可されている研究室では自由にアイソトープを実験台で使って良いことになっている。日本のように、わざわざ特別の部屋や施設に実験をするために通わなくても良いので、これは非常に便利だ。しかし僕のいるラボのように、まわりにいる人はまったく使わないのに、アイソトープを使う人が一人だけ同じラボにいるということは、同じ部屋にいる関係ない人には気の毒だったりするけれど。
  研究室で自由にアイソトープが使えるということは、その使用許可を取るのが非常に難しいのか、と言うとそんなことはなく、MITでは3時間の講義とそのあとの試験にパスすれば誰でも使えることになっている。と言うことで、今日はその講義と試験の日。我が研究室は、ボスが使用許可をもらっていないので、まだアイソトープを使えることになっていない研究室。そこで、今日はボスも一緒に講義を受けることになった。
  受講者はわずか4人。申し込みがあると随時この講義が行われるので、いつもこんなものらしい。講義はもっぱらOHPを使って理論中心のもの。実験に際しての具体的な操作などの話は、3時間の中で結局一回も出てこなかった。僕のように過去に使ったことがある人は良いかもしれないけれど、大学院生のように初めてアイソトープを使うような人は明日から即使用可能なのに、なんの操作に関する注意がないのもどうかと思うけれど、それがこの国のやりかた。もっとも、新人のいる研究室は1カ月ほど汚染検査を欠かせないらしい。そこはまさに自己責任の国である。
  試験は20問のマークシートで、時間無制限。こちらはまず質問の意味を理解するのに時間がかかるので、当然のごとく一番最後に教室を出ることになった。結果は、昨日の一夜漬けの勉強がなんとか功を奏してめでたくパス。最後にフィルムバッジをもらってめでたく修了となった。

1999年
 8月5日
  共同研究先の教授がラボを訪れるので3時にオフィスに来てくれとのボスからのお達しがあり、その時間に間に合うように実験の都合をつけて、その時間まで実験の説明をあれこれと頭の中で復唱。まだまだこの準備の時間がないと、十分に説明をすることが出来ないのも困ったものだけれど、今さらどうすることも出来ないのでしょうがない。
  さて、時間となりオフィスに向かうといきなりの重大発言。「来週からハーバードで実験が出来るようにしたので、そちらで思う存分やってくれ。」・・・初めはなんのことか分からなかったけれど、すぐに事態を把握して「OK」(他になんと言っていいか分からないのでとりあえず無難に)と答えた。なんでも、共同研究をしているラボで実験台が空いたので、そちらでいっそのこと一緒にやったらよいだろうという合意に達したらしい。ということで、東北大からロシュに出向したのに続いて、またまた出向ということになった。「歴史は繰り返す」・・・ほんとに。

1999年
 8月6日
  6月から続いている化学系の研究室対抗バレーボール大会も大詰めを迎え、総当たりリーグは残すところあと2試合。その後順位によって決勝トーナメントが始まる。で、今日は正午からその試合があった。結果は接戦の末、負け。悔しい3敗目を喫し順位も一歩後退。
  バレーボールの疲れも癒えた午後6時。今度はサッカーの試合があって、ボスを含めたドイツ人と南米組とともにそれに参加。もっとも本格的なサッカーではなくて、日本では「フットサル」として知られている6人制のミニサッカーだけれども、そこは日頃の運動不足がたたって、30分の前半戦が終わるともうくたくた。おまけに試合も3対6で負けてしまったもんだから、もう疲れがどっと出た1日だった。

1999年
 8月7日
  2年前に、同じ大学のとなりの研究室からUCLAに渡ったS先輩が、ニューハンプシャーの学会に明日から参加するとのことで我が家で一泊。S先輩とは、僕の学部時代に一緒に仙台の草野球チームに所属してサンデーリーグに参加したり、テニスの合宿をやったりした間柄だが、奥さんが僕の同級生ということもあり、いろいろと気にかけてもらっている。今日は1泊だけだけれど、学会が終わった後、再びボストンに寄ってくれてしばし観光をすることになっている。
  現在アメリカ国内に日本人の知り合いが5人いるけれど、学会がニューヨークなどボストンの近くで行われることが多いので、そんな彼らと久しぶりにこの地で会えるのも楽しみである。

1999年
 8月9日
  今日からHarvard Medical Schoolの付属施設であるBeth Israel Deaconess Medical Centerの一室で実験をすることになった。BIDと略される病院がメインのこの施設は、West CampusとEast Campusとにそれぞれ建物があり、またそれがどちらとも巨大かつ複雑なものである。方向音痴の僕としてはまず研究室にたどり着けるかどうかがもっかの課題だったが、なんとかクリアー。さっそく新しいボスから設備等の説明を受け、新しいベンチへ。なんと僕の他にはポスドクがたったの2人という小さな研究室だった。もっとも普段はとなりの巨大な研究室の備品を借りているので、実験に問題はないようだ。明日からさっそく実験がスタートする。ついでに来週にはハーバード大でのアイソトープ実験の使用許可を受けるための試験を受けなければならないらしい。つい先週MITで受けたばかりなのに・・・。

1999年
 8月10日
  アメリカに渡って2カ月半。ついに避けては通れないプレゼンテーションの日がやってきた。出向を言い渡されたといっても、バスで10分ほどしか離れていないので、毎週このミーティングには参加するように言われている。そして今日は、毎週一人づつ行われる実験報告会の順番がまわってきたもの。特にポスドクの最初のプレゼンテーションでは博士論文の内容も話すことになっているので、2カ月の間やってきた実験と、博士論文、さらにこれからのプランをまとめて発表することに。ま、始まってしまえばなんとかなるものだが、始まるまでが大変で、一人でぶつぶつ練習していたら「Don't worry about it!」と何人の人に言われたことか。それでも、終わったあとに(質問されると答えるのに一苦労するものだから、午後7時に始まったミーティングは大幅に時間をオーバーして午後9時近くにようやく終了)大学院生から「おもしろかった」と声をかけられて、ホッと一息ついた次第。英語の勉強も頑張らねば。

1999年
 8月11日
  新しい研究室はボスも含めて全員で4人しかおらず、おまけに2人づつで部屋を使っているものだから、毎日本当に静か。同じ部屋の中国人のジェイもとなりの部屋のイラン人のササンも無口ときているから、なおさらのことである。もっとも、フロアー中に20人近くがいるはずなのに廊下に出てもあまり話し声が聞こえてこないから、大学と違って病院内の研究室という環境からくる静けさなのかもしれない。ちょっと不気味なほど静かなので、なれるのに時間がかかりそうだけど。

1999年
 8月13日
  MITの研究室(どちらの研究室のことかをいちいち示さないといけないのはちとやっかいだけれどご了承のほどを)のポスドク第1号であるドイツ人女性のスーザンが、今日をもってドイツに帰ることに。そこで今日は、ボスの主催でお別れランチが開かれた。総勢12人がぞろぞろと歩いて15分歩どの中華料理店へ。すでに予約していた我々は、かなり本格的な円卓に通された。おまけにさすがボスの主催。好きなものをなんでも頼んで良いとのお達し。僕は久しぶりに酢豚やギョウザ、春巻き(egg roll)を堪能した。ところで、お別れランチである。最後に内緒で用意した寄せ書き(英語でなんというのか聞くのを忘れた)をスーザンに手渡す役目を仰せつかった僕は(同じ部屋の唯一のポスドクが僕で、世話になりっぱなしだったことをみんなが見逃さなかった)、かっこいい言葉の一つも言ってから手渡そうといろいろと用意していたのに、あんまりみんなが盛り上がるものだからとんと言葉が浮かんでこなくなってしまって、結局「Thank you!」としか言えなかった。でも感謝の気持ちは伝わったと思う。なにしろスーザンは、こっちが英語が浮かんでこなくてしどろもどろしていると、なぜだか言いたいことをすらすらと代弁してくれるという特技をもっているから。とにもかくにも、短い間どうもありがとう。

1999年
 8月15日
  ニューハンプシャーの学会から戻ったS先輩と一緒に、JFK(John F. Kenedy 元合衆国大統領)の生まれた家を見学に。僕の住むBrookline市は、JFK一家がアイルランドから移り住んだ場所として知られているが、今日になるまでJFKの生まれた家がアパートから歩いて15分ほどのところにあるなんて知らなかった。さぞや豪邸に違いないと行ってみてびっくり。住宅街の一角に当時のまま保存されている家は、まわりの家に溶け込んでしまうほどのごく一般的な3階建ての家。現在はパークレンジャーによって保存され、見学が出来るようになっているが、そうした案内板がなければとても気がつかないかもしれない。もっともそれも当然で、この家はまさに後の栄光の基礎となった家で、その後JFKはニューヨークに居を構えるまでにかけ昇っていくことになる。何かと悲劇がつきまとうJFK一家の原点となった家を生で見れるだけでなく、当時の生活の様子がかなりリアルに再現されているのでおすすめ。


最終更新日:1999年 8月 15日
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