diary


 

2000年
 1月1日
  いよいよ新千年紀の始まり。ちょっと普通の年と気分が違うのは、マスコミに煽られ過ぎか、はたまたアメリカで初めて年を越したことによるのか。いずれにしても、新しい年の幕開けは否が応でも新鮮な気分にさせられる。

  それでも何かが足りない。やっぱりお正月は、餅を食べないと・・・というわけで、ボストンに住む日本人の方々が集まって雑煮パーティーが行われた。

  お昼を兼ねてのパーティーには、雑煮だけでなくまさに日本人には欠かせない数々のお正月料理が勢揃いし、アメリカに居ることを忘れて堪能。一人食べることに専念させていただいて、正月を感じることしばし。なにしろ、このアメリカときたら、昨日の盛大な年明けセレモニーが終わるやいなや、いたって普通のモードになってしまっていて、まったく正月らしさがない。いつもの年だと明日の2日から仕事が普通に始まるのも、納得の雰囲気である(今年の2日は日曜日)。

  このあと、正月気分もそこそこに、ラボに出向いて実験初め。すぐさま、正月のないアメリカに居ることを実感することとなった。

 

2000年
 1月3日
  今日から何事もなかったかのように普段の光景が広がっている。どうやら、こちらではあくまでもクリスマスの最後のイベントとして「年明け」が位置しているようで、新しい年を祝うという概念は全くないらしい。

  ラボのある同じ階では今日から仕事始めという方も多く、あちらこちらで「Happy New Year!」という新年の挨拶がかわされて・・・いるかと思いきや、あまり耳にしない。なんて冷たい人たちだ、なんて初めは思ったのだけれど、アメリカ人に聞いたところでは、New Year's Day、つまり1月1日以外に「Happy ....」と声をかけるのは不自然なんだそうな。こんなところにも徹底して年明けのその一瞬だけを祝う精神が文化として根付いているようだ。

  まあ、僕はといえばそう聞かされても会う人ごとにかまわず「Happy ....」と声をかけることにして実行。だって、その年の初めに会った人にはそう声をかけるのが日本人の文化だから。ささやかだけれど、こんな日本文化の宣伝を兼ねて。

 

2000年
 1月5日
  ハーバード大学の各施設を利用するためには、当然のことながら本人を確認するためのIDが必要なのだが、発行してもらうための手続きをしてから早4カ月。待てど暮らせど何の連絡もなかったのだけれど、ついに先日IDに使うための写真を撮るからオフィスまで出向いて来いと言うお達しをもらって、ぶつぶつ言いながらも歩いて5分ほどのところにあるカードオフィスに出向いた。

  このIDを発行するための最終手続きとなる写真撮影までの時間たるや。さぞや最後の関門も、すったもんだあるに違いないと心してオフィスに乗り込んだ。方向音痴の身には初めての場所は本当に鬼門で、またしてもその部屋を見つけるまでにフロアをくまなく地図でも作れるくらいに歩き回ってしまったのだけれど、まあそれはいいとして、やっとカードオフィスに到着した。誰も居なそうなので、ひょっと顔だけ覗かせてみると、ぽつんと暇そうに座っているおっちゃんと目が合った。連絡を受けたので出向いた旨を伝えると、おっちゃんは一言「ここに座れ」とのたまう。何か尋問でもされるのかと思いながら、どっこいしょと座ったとたんにカシャッという音。すかさず、「All set!」と言われ、カードは後日郵送されるからもう用はないので帰れ、と告げられ、しばし呆然。

  本人の確認もせずにIDなぞ発行して良いものなのか? それとも、どうみてもこの顔は「Tomio Yabe」に見えたのか? まったくもってどうなっているのか。所要時間わずか1分。まあ、早いのはいいのだけれど、出来ることならすべてにおいて早い事務処理を願いたいものだ。と、ぶつぶつぶつぶつ・・・文句は果てしなく出てくるのだけれど、ここはアメリカだし、と思えば怒りがおさまるのも便利な国である。

 

2000年
 1月20日
  発行されたIDの使い道はいろいろあるのだけれど、その一つは、図書館に行かなくてもラボのコンピューターからオンラインで論文が読めるという特典。自分の名字とIDナンバーを要求されて、カタカタと打ち込めば、何とも便利な一発表示・・・になるはずが、画面には「お前の名前は登録されていない」との警告。またまた性懲りもなくお決まりのトラブル発生。もう驚きもしなければ怒りも湧いてこない。

  とりあえず、歩いて5分ほどの図書館に直行し、事情を説明して対処してもらうことに。実験の途中だったので、すぐに事態を解決して戻ってくるつもりで白衣姿のまま外に出たのがけちの付け始めだった。外はマイナス10℃を下回る厳寒の地であることをすっかり忘れていた。この5分間の長いこと長いこと。図書館に到着したらしたで、眼鏡の曇りがテンでとれないので、しかたなくしばし雑誌を読んで態勢をととのえることにした。

  ようやく体温を取り戻し、気力も戻って、事務のおばさんに事情説明。すると、このカウンターじゃわかんないから、3階のオフィスに行くと専門家がいるのでそっちに聞いてくれとのこと。そこで、3階に行こうとしたのだが、実は医学部図書館は昨年から大改造中で、何だか建物の中がどこかのおばけ屋敷のように複雑怪奇にところどころ閉鎖されていて、さっぱりどこをどういけば3階に到達できるか分からない。ようやく学生さんの案内の元、3階にたどり着いてオフィスへ。またまた同じ説明をすると、それだったら入口のところのカウンターのコンピューターで登録の確認が出来るから、そっちに行ってくれ、とのお言葉。ん〜、いつものパターンにはまってきたぞ。しょうがないので、もう一度カウンターに行くと、くだんのコンピューターで早速確認してくれた(初めっからやってくれれば・・・なんてことを言っていはいけないのである。アメリカでは)。しかし、コンピューターいわく「お前の名前は登録されていない。」まあ、それは分かっているので、こうしてわざわざ出向いてきているわけだが、この時点でようやくスタートラインに立った気分である。その先を聞きに来たのだ。

  カウンターのおじさんいわく(おばさんでは埒が明かなくて、途中からおじさんに交代)、「図書館のコンピューターは年末からこの工事のため機能していないので、ここからは登録作業が出来ないので、カードオフィスに行ってそこら辺のところを聞いてみろ」とのこと。たらい回しパターンにどっぷりはまってきているけれど、ここで抜け出したところで事態は解決しないので、言われたとおりに隣の建物のカードオフィスへ。またしても暇そうなおっちゃんに事情を説明すると、単刀直入のこのおっちゃん。今度は何やらメモを書き出し、すっとそのメモを差し出して一言。「ここに電話しろ。」

  とりあえず実験もあるので、ラボにまた寒い中縮こまりながらやっとの思いで帰還し、時間が空いたときに言われた番号に電話してみた。そこは、ハーバード大学の関係者を一手に管理しているIDセンターだった。さすがに問い合わせには慣れているのか、丁寧な応対にちょっと感動しながらも、結局「名前はしっかりと登録されているけれども、医学部の図書館のコンピューターにはまだ登録が済んでいないようなので、カードオフィスに問い合わせて登録してもらいなさい」というお達しにボーとすることしばし。そのカードオフィスからこのIDセンターを紹介されたんですけど・・・。いわゆる無限ループにはまり込んだような気がしながらも、もう一度だけと言う思いを込めて、またまたカードオフィスに電話をした。すると今度は、「図書館の登録はしばらくしていなかったので、そのうちその作業をするからそれまで待ってくれ」との回答。要するに、僕はまだ使えないってわけですね。はあ、長かった。

 

2000年
 2月17日
  寒いボストンでの生活をいっそう寒いものにしているのが、板の間のアパートの床である。アメリカで畳なんていうものに遭遇するのは非常にまれなので、普通はカーペットでも敷いて保温をするのだろうけれど、我が家にはこのあったかそうなカーペットの類がない。しばしば物色をしてみるものの、これが意外と高いのにおそれをなして、今の今まで購入を渋っていた次第。

  しかし、最近のあまりの寒さについに観念し、重い腰を上げることとなった。といっても、新品の高〜いカーペットなんぞには手も出なければ足も出ないので、中古品を探すことにした。アメリカにはこんな時に非常に便利なシステムがあって、一般に「ムービングセール」と呼ばれている。つまり、誰かが引っ越しをするようなときに、不要になったものを廉価で人手に渡そうというシステムである。僕のように、2年や3年の予定でアメリカに滞在するものにとって、これはなかなかのシステムである。学生さんなどはほとんどの身の回りの品を、このムービングセールで手にしているほどだ。

  で、前置きが長くなってしまったけれど、今日はそのムービングセールで日本に帰国する方から運良くカーペットを譲ってもらえることになって、その引き取りに出向いた。値段はたったの10ドル。「3m×3.5m」という大きさからいうとゆうに100ドルはしそうなものだから、待ったかいがあるというもの。大きなカーペットである上に、場所がケンブリッジということもあって僕の住むアパートから遠いので、同じアパートに住む方にお願いして車を出してもらうことにした。

  僕の方向音痴はもう何度も登場しているので、今さらここで恥をさらすつもりはないが、あにはからんや、なんともスムーズに1時間ほどで目的地に到着した。まあ、ブルックライン市からケンブリッジ市まではどうみても30分と時間がかからないことは、ボストンに住む人以外には分からないだろうから、伏せておこう。

  しかし、とんとんと事が運んだためしがないボストン生活である。今回も目的地であるアパートには到着したものの、なんと、集中制御になっている玄関のドアが故障しているのか何の応答もなく、玄関で立ちつくすことに。しばらく、住人が通りかかりはしないかと待ってみたものの、誰の気配もないので仕方なくどこかの公衆電話から電話して玄関まで降りてきてもらうおうと考えた。

  まあ、こういうトラブルのときは得てして次の展開もだいたい察しがつくのだが・・・。まさしく、近くに公衆電話らしきものが、まったく見あたらない。完全なアパート街であるらしく、店らしきものも見あたらないとあっては、ただ時間が過ぎていくばかり。ただ走り回っているだけで、はたから見れば寒空の中のジョギングにしか見えないだろうし埒が明かないので、とりあえずアパートに引き返すことにした。

  戻ってみると、何やらアパートの管理人らしき人が待ちかまえていてドアを開けてくれた。ちょっと拍子抜け。やはり玄関のドアの故障で、中から誰かが開けないと開かなかったらしい。この管理人さんはずっと門番をしていたらしいけれど、あまりに静かで僕たちのことには気がつかなかったそうな。こんな時は手でも足でも出して、ドンドンと騒ぎ立てるのも手だったのかな。

  まあなにはともあれ、その後はどうやって車にこの巨大な荷物を載せるかで多少の格闘はあったものの、無事に我が家にカーペットがやってきた。残りわずかの寒い冬も、これで少しはあったかく過ごせるかな。

 

2000年
 2月29日
  2月に29日があるのは、一般には下2けたの数字が4で割り切れる年である。まあ、そういうわけで4年に一度この日が巡ってくるわけである。しかし、この4年に一度のうるう年には例外があって、下2けたの数字が00の年、つまり100で割り切れる年は、例外としてうるう年にはならない、と決められている。

  ということは、100で割り切れる年である今年は、はて、なんでうるう年なのか。

  実はさらに例外の例外があって、上2けたの数字が4で割り切れる下2けたが00の年、つまり400年に一回まわってくる00の年は、うるう年なのだそうだ。

  というわけで、何も考えなければ普通の4年に一度のうるう日である今日は、なんだか難しく考えるとなんとも得した日なのである・・・?で、そんなことを考えながら1日を過ごしてみると、これがなんとも特別な日に感じられてしまうから不思議なものだ。まあ、そんなのは僕だけかもしれないが。

  ところで、日本では給料というものは月ごとに月給として支給されているから、2月なんていうのはそれこそお徳な月である。どこの会社でも2月の給料は安いなんていう話は聞いたことがないので、他の月に比べて2日とか3日分の給料をタダでもらっているようなものだから、29日がある年かない年かというのは、案外重要なことだったりする。しかし、アメリカではサラリーを月給として支給するという習慣はなく、たいてい週毎かせいぜい2週間おきに支給される。ということは、2月が29日まであるかないかなんていうのは、まったく眼中にないのである。まあ、日本でも今年がうるう年かどうかなんていうことを気にしている人を探すのは、至難の技かもしれないけれど。

 

2000年
 3月21日
  月例のボストン糖鎖生物学懇談会にて、今日はびっくりが重なった。

  まずは、この会の常連でMITの生物学科から参加している中国人のポスドクが、ニコニコと近づいてきてうれしい知らせ。彼とはこちらに来てすぐにMITのキャンパス内でひょんな事で出会い、何の因果か同じ分野で研究している事が後に判明し、こうして毎月この会で会話をする仲となった次第。「次の仕事が決まったよ。」と言うので、今度はどこでポスドクをするのかと思っておもむろに聞いてみると、「今度はメリーランド大学でassistant professorとしてラボを持つことになった」とのこと。いやはや、びっくりである。

  まあ、我がボスのことを思えば、僕とそう年の違わないポスドクがラボを持つということは特別のことでもないが、身近な人がいざラボを持って自分の思い描いた研究をしようとしている瞬間に立ち会うと、これはまたかなり刺激的ではある。今は新しいラボを立ち上げるための器材の選択や、研究費の工面で忙しいとのこと。是非とも頑張ってもらいたいものだ。

  そして、次のびっくりは恒例のセミナーが始まったときに起こった。今日のお題は糖鎖の化学分析に関する研究についてで、ハーバード大学医学部のassistant professorの講演である。そして登壇した中国人女性は・・・なんと、僕のよく知るボスの議論仲間で、彼女のラボやアパートが僕の職場に近いこともあってたびたび顔を合わせている方である。しかし、僕はてっきり同じポスドクだと思ってこれまで半年以上接していたのだった。中国人の名前は、こちらで漢字で表記されることも無ければ、アルファベットの表記も何となく発音と一致してとらえられないので、まったく気がつかなかったのだが、いやはや驚いた。

  こうした若くしてボスとなっている彼らに共通しているのは、いつも自分の考えを堂々と主張していることである。誰がなんと言おうと、とりあえず自分の思いを十分に伝えようとする態度からは、科学に対するいわゆる「情熱」のようなものが感じられる。是非彼らに学びたいものであるが、とりあえず思いを伝えるための前提条件となる「英語」を・・・。

 

2000年
 3月23日
  1カ月ほど前にMITのボスから、3月23日の午前中は予定を空けてラボに来るようにとのお達しがあった。なんでも日本の企業の方からラボ訪問をしたい旨を打診されたので、お前も顔つなぎのために同席しろとのこと。「顔つなぎ」だなんて、なんだか日本的な発想だなと思いつつも(もっとも顔つなぎと訳したのは他でもない僕の仕業で、ボスは一言「connection」と言ったのだが)、よくよく考えてみれば人とのつながりというのは世界共通の社会を構成する最小単位であるから、将来日本に戻って研究をしたい旨を表明している僕のことを慮ったボスの、人としての紛れもない真心あふれるこころづかいである。感謝、感謝。

  科学の世界を外側から見ている人たちにとどまらず、内から眺めている者々ですら、研究者の世界は得てして先陣争いに終始する競争社会と思われているせいか、ぎすぎすした個と個がぶつかり合う業界だととらえられがちだけれど、現実的にはこれからますます人と人とのつながりが、ストレートに研究の進展に、ひいては科学の進歩に影響を及ぼしてくるようになると断言できる。というのも、それぞれの専門が細分化された現代の科学では、とても自分一人で大きな仕事をしようというのはどだい無理な話となりつつあるので、真に問題点を捉えそれを解明しようとするためには、多くの異分野の研究者たちが広い視野で多くの協力者を得て協同で研究を進めることが、一歩でも前進するためのキーポイントとなってくる。

  というわけで、将来のための「顔つなぎ」となったわけであるが、朝9時に現れた某大手食品メーカーの研究員という彼は、なんでもこの後サンフランシスコで開催される学会の「ついで」にボストンを訪問し、いくつかのラボを見学しているとのこと。おまけにこれは個人的な訪問ではなく、会社からの出張に含まれている公式のもので、さらには上司から無理やり命令されたのだそうだ。

  日本はいまだ不況を完全に脱しきれていないと思っていたけれど、こうした会社の方針に間近に接することで、これはもう日本は既に不況を脱したんだなあという思いを新たにした。少なくとも、もうすぐにでも景気を回復する大勢は整ったと考えていいような気がする。どうしてかというと・・・

  激しい競争社会を生き抜かなければならない企業にとって、真に生き残っていく会社とは、まぎれもなくどれだけ社会に貢献しているかどうかが指標となる。そして、誰も予測のつかない激動の社会に対する普遍的な企業の貢献とは、「人材の養成」であると僕は考えている。たとえば、現代のアメリカの景気を一手に引き受けている感のあるインターネット産業は、10年ほど前にIBMという大企業をリストラされた2万人ほどの元従業員が起こした企業が支えており、彼らを育てたIBMは今大変元気である。また、終身雇用が崩れていく中で、同じ会社にとどまる可能性の少ない優秀な若者が選ぶ企業とは、とりもなおさず自分を一流に仕立ててくれる会社かどうかを基準にするに違いない。

  そういうわけで、今日は明るい日本の未来をかいま見ることが出来た上(?)、新たな知り合いも作れたということで、得した気分に浸った日だった。おまけに個人的には、ボスが彼にラボの大まかな説明をするのを横で聞いていて、そういえばまとまったラボの方針を聞くのは初めてだなあ、と今ごろようやく全体像をつかんだりなんかしたのんきさに気付いた日でもあったのだが。


最終更新日:2000年 3月 23日
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