備忘録・2001年4月

日々の出来事やその日に仕入れた情報をお届けします

Thursday, April 26, 2001
 昨日の4月25日は「秘書の日」。化学科のラボでは、メンバー全員からということで秘書に花束のプレゼントを。50ドルの花束は、花そのものの豪華さもさることながら、凝った鉢に植えられたなかなかの贈り物となった。

 ちなみに、秘書の日に対応した「ボスの日」もあるわけで、その日はちょうど半年後の10月16日。


Tuesday, April 24, 2001
 これだからニューイングランド地方の天気は分からない。

 今日の最高気温は、なんとも一気に春を通り越して夏を迎えたかのような26℃。道往く人たちの服装も、上着がいらないどころか、短パン、Tシャツという姿もあちらこちらに。

 そんな外気の上昇を受けて、まだ建てられてから10年と経っていない新しいビルディングの一つの生物学科は、さっそく冷房が入って、なんだか変な雰囲気を感じつつも、まあ快適なことには違いない。

 ところが、現在改築工事が進む化学科の建物は、冷房なんて小回りよく気の利いたことが出来ないどころか、何とも空気の循環が悪いことこの上なく、もう完全に夏の雰囲気。夜のミーティングのときなど、まさに汗をふきながらの議論となった。

 それにしても、明日の最高気温は12℃と予報ではのたまうが・・・。どうりで、まわりに風邪を引いている学生が多いはずだ。


Sunday, April 22, 2001
 今日の最高気温は22℃と、ボストンもこれですっかり春に季節は移り変わった気配。もっとも、ニューイングランド地方のやっかいな気候は、まだまだ予断を許さぬけれど。

 さて、日本から嬉しい知らせ。僕の第二の故郷の仙台を拠点とする、サッカーのJ2リーグのベガルタ仙台が、先週までの好調を持続して今週も白星を重ね、5連勝でがっちりと首位をキープしたとのこと。この勝利は、仙台の清水秀彦監督の、1993年のJリーグ発足以来リーグ戦通算100勝目となる記念すべき勝利となった。

 清水監督は、Jリーグの開幕戦となった1993年のヴェルディ川崎戦で、横浜マリノスを率いてその歴史的な1勝を記録した監督で、それ以来の足かけ9年での達成となる。100勝を達成した監督はもちろん史上初めてのこと。ちなみに、日本リーグ時代の監督の成績を含めても、トップの加茂周監督の124勝にあと12と迫る112勝となった。

 普通は、前のチームを解雇された監督は、なかなか新しいチームに巡り合うことは難しいのだけれど、フロントと衝突しては解雇されても、なおひっきりなしに監督に請われるその手腕をして、この成績には納得。「監督はプレーできないのだから、大事なのは選手をいかに気持ち良く送り出すか」というのは、理論派とも激情家とも言われる清水さんを「選手派」と言わしめる、清水さんの有名な監督理論である。仙台は清水さんの4つ目のチームとなるけれども、仙台にこの監督を迎えられた幸運をかみしめて、一気に優勝、そして仙台市民念願のJ1昇格といきたいものだ。

 さてさて、先週はかなりいろいろなことがあって、この欄の更新も間々ならなかったけれど、その一部を振り返って。

 木曜日には1993年にノーベル賞を受賞したMIT教授のフィリップ・シャープ教授の話を聴くことが出来た。RNAのスプライシングというアイデアを初めて世に出した人である。

 この先生は、研究に専念したいからとその後MITの学長就任の話があったときに辞退したことが知られているけれども、その一方で、イントロン・エキソンの命名者であるハーバード大学のウォルター・ギルバード教授とともに、MITのすぐ近くに今やバイテク企業の先頭を走るBIOGENという会社を設立したことでも知られている。

 そして同じ木曜日には、そのBIOGEN社の研究者と、ボストンで「Pichia」という酵母を使ったタンパク質の生産に携わっている研究者およそ15人ほどが、毎月1回集まって開いている勉強会に出席した。この会は、この分野では先端を走る「Invitrogen」というカリフォルニアにある会社が主宰して行われている。

 この勉強会に参加していつも思うのは、企業が主宰にしているにも関わらず、何とも情報がオープンにやりとりされていること。この分野の一大拠点であるアラバマ大学やカリフォルニア大学サンディエゴ校の研究室との連絡はいうに及ばず、この勉強会での成果は、Invitrogenのウェブサイト上で逐一報告されている。つまりは、低コスト・大量生産のメリットが知られているこの酵母を用いたシステムは、同時に非常に成功率が低いことでも知られていて、それをどんなタンパク質を用いても、誰もが簡単に成功を収めることが出来るように、このボストンから情報を世界に発信しようとする、その意気込みにおいてこうして人が集まってきているということだろうと思う。

 ところで、来週からはまたまた新しいラボに出向いて実験を手伝ってもらうことに。生物学科のラボから道を一つ隔てた「Center for Cancer Research」の建物に、扱っているタンパク質の解析の仕方などのトレーニングを積んでもらうことになっている。

 ここまで体の移動する範囲が広くなってくると、「顔が広くなる」なんて喜んでもいられなくなってくるが、僕のアイデアなりやろうとしていることをなんとか実現させてやろうと、3人のボスたちがそれぞれに便宜をはかってくれている結果であるからして、体力の続く限りといわず、こなせるだけの体力をつけて(そろそろジョギングも再開しなくちゃ)、邁進、邁進。

 そんなスクランブル状態を知ってか知らずか、生物学科のラボの面々が金曜日に「日本食パーティー」を企画して、総勢15人でケンブリッジの「ROKA」という日本食レストランに繰り出して、日本酒と「すし」を堪能した。もっとも、アメリカ人のイメージする「すし」は「握り寿司」ではなくて「巻き寿司」のようで、ひとつの握り寿司も口にしなかったが・・・。

 それはさておき、暖かくなって、ボストンでも桜がちらほら目につくようになってくると、何とも恋しいのが「花見」。

 花見といえば、日本では桜の花を愛でて桜の木の下で行われるのは、古来「桜」が『稲の花の象徴と考えられて、その散り方如何が稲の花を予祝し、ひいては村の生活の全体の吉凶も占うものとされた』(山本健吉「最新俳句歳時記」新年篇)からだそうで、花見は桜の木の下で酒宴を開いて田の神と飲食を共にする大切な行事だったようだ。どうりで、桜の花を見て胸が躍ると思ったら、どうやら本来の百姓の血が騒いでいるらしい。

 そもそも、花を愛でて文雅の宴を開くという上流階級の風習は、中国・朝鮮の宮廷から輸入されたもので、奈良時代に中国から渡った「梅」が、当時は香気高い初春の花として特に愛好されたことが知られていて、『万葉集』で花見を歌う短歌はほとんどが梅を題材にしたもの。『源氏物語』の「花宴」の巻に登場する桜の花見は、嵯峨天皇の代(812年)になってようやく宮中で開かれるようになったものだ。

 もっとも花見をするにも、ボストンには「公衆の面前、青空の下で、アルコールを口にしてはいけない」という州令があるので、無理な話なのだが。


Wednesday, April 18, 2001
 精進が足りないと言われようが、「そら耳」で良かったのになあ・・・。

 昨日のラジオから聞こえてきた「雪」は、どうやら聞き間違いではなかったようで、今日は朝から雨に混じって雪の舞う天気。気温も1℃と、完全に冬に逆戻りとなった。

 それでも、午後には天候も回復し、雲の切れ端から晴れ間ものぞいて、まずは一安心。1日中こんな天気が続いたら・・・。

 さらには、ハーバード大への移動の道すがら、つぼみがはじけたばかりのような桜の花が、あっちでぽつり、こっちでぽつりと咲いているのを発見。街路樹のまわりを駆け回るリスの動きも、ちょこちょこと元気が良い。

 地上の春を待つ準備は、もうすっかり整っているのに。


Tuesday, April 17, 2001
 アパートのまわりの街路樹のつぼみも大きく膨らみ始め、ちらほらと白やら黄色の花が咲き始めている。

 道みちの花壇には、この時期に花開くことから「イースターリリー」という別名のある白ユリが、大きく花弁を広げて、陽射しをめいっぱい浴びて、なんだか気持ちよさそうだ。

 ボストンにもようやく遅い春の訪れ。

 ん・・・、今なんだかラジオから「明日は雪が舞い・・・」なんて聞こえてきたような・・・。

 ああ、アメリカに住み始めてもう2年になるというのに、まだ英語の聞き取りが出来ないなんて。まったく、この時期に「雪」なんてねえ。そら耳にもほどがあるよ。

 まったく・・・。


Monday, April 16, 2001
 4月の第3月曜日に当たる今日は、「ペイトリオッツ・デー(愛国者の日)」というマサチューセッツ州の休日で、1775年4月19日にボストン郊外のレキシントンで独立戦争の一番最初の戦いが起きた日を記念した祝日。

 といっても、僕たちのラボでは、申し合わせ事項として年間5日の祝日をラボの休日とするということになっていて、今日はそのラボの休日ではないので、いたって普通の月曜日だったが。ちなみに、元日、メモリアル・デー、独立記念日、サンクスギビング・デー、クリスマス・デーが、我がラボではカレンダー通りの休日となる。

 ペイトリオッツ・デーには、今年で105回目を迎える、世界で最も古い歴史を刻むボストンマラソンが行われることでも知られるところ。このマラソンは、もともとは独立戦争の際に戦場となったレキシントンまで、イギリス軍が行進した道程をそのままに走ろうというアイデアで企画されたそうだが、その道のりではマラソンの正式距離である42.195kmには足りないので、現在のホプキントンを出発地点としてボストンの公立図書館までの道順となったそうだ(といってスタート地点とゴール地点も何度か変更されているが)。この大会は、好記録の出ないコースとして世界的に知られているので、日本陸連はもう20年も前からサポートしないことを決めていて、日本人の優勝者は1987年に2度目の優勝を飾った瀬古利彦さん以来出ていない。

 というわけで、生のボストンマラソンは見れなかったので、10年続いたケニア人の優勝が途絶え、韓国人が初めて優勝した・・・というのは、今ニュースで聞いた話。

 さて、昨日はイースター・ホリデー。この日は、キリスト教にとってはクリスマスに並んで重要な意味を持つ日。つまり、キリストはユダヤ暦の1月(ニサンの月)13日金曜日に磔刑となり、15日の日曜日の朝に復活したとされていて、これを祝うのがイースター祭。たとえ普段は教会に行かなくとも、クリスマスとイースターだけは教会へ、という信者も多い。

 イースターをいつにするかという取り決めは、歴史的に様々な経緯があって、なかなかに複雑怪奇である。以前にこの欄で紹介した「ユリウス暦」(
2月28日備忘録参照)では、1年は365.25日となって実際より長くなるため、約128年で同じ日(例えば春分の日)が1日遅れていくことが、その歴史的な経緯を作ってきた。

 カエサルが定めたユリウス暦では、3月25日が春分の日、12月25日が冬至だった(ちなみに、クリスマスが12月25日であるのは、このユリウス暦にもとづく冬至の日付から、後にキリストの誕生日として定められたものである)。ところが、カエサルの時代から400年ほどだった頃、キリスト教を国教と定めたローマ帝国のコンスタンティヌス大帝は、キリスト教会の教義統一を図るため紀元325年に主宰したニケア公会議で、復活祭を行うための基準となる春分の日を3月21日と宣言した。つまり、128年で1日ずれる暦の正しさを示すかのように、カエサルの時代に3月25日だった春分の日は、400年でちょうど4日ずれたことを物語っている。

 ところで、キリストが復活したことを記すユダヤ暦は太陰太陽暦であるため、太陽暦であるユリウス暦とは日付が異なっており、既にユリウス暦になじんでいたローマ帝国国民としていまさら太陰暦に戻りたくなかったこと、またユダヤ教徒とキリスト教徒とのトラブルやユダヤ人迫害も始まっており、イースター祭の日取りを決定するのにユダヤ暦を用いたくなかったこと、などから「春分のあとの満月の次の日曜日をイースターとする」という苦肉の決定を下し、この時以来現在に至るまでこのルールに則って毎年のイースター・サンデーが決められている。

 もっとも、ヨーロッパ社会は中世までユリウス暦を使い続け、それでも春分の日は3月21日と教会が決めていたので、どんどん実際の春分の日から暦がずれていき、しまいには「間違った暦を用いてイースター祭の日取りを決めるのは、神への冒涜ではないか」といった教会内部からの非難にさらされたりしていた。

 そんな非難に長年さらされた後、現在世界中で一般に使用されている「グレゴリオ暦」をグレゴリオ13世が1582年に定めることによって、この春分の日のずれが解消され、現在では心置きなくイースターを祝えているというわけ。もっとも、このグレゴリオ暦もローマ教皇が決定した暦であったため、カトリック以外のプロテスタントやギリシャ正教・ロシア正教等を信ずる諸国ではなかなか普及せず、イギリスが採用したのが1752年、ロシアなど正教国は19世紀になってからと、なかなかに宗教の世界は難しいのである。

 余談ながら、日本では1873年に明治政府が「ユリウス暦」の採用を決定している。つまり、数々の問題を解決したヴァージョンアップ版の「グレゴリオ暦」が世に出てから300年も後に、問題を抱えた古い暦を採用するという失態。その後、グレゴリオ暦を正式採用したのが1900年というあたり、その当年になって初めて問題に気付いたことがあからさまに浮かび上がるけれど、なんだかそこまでいくと可愛らしくもある。


Thursday, April 12, 2001
 朝から降り続く雨。何度も何度も恨めしげに空を見上げては、ため息をつく。はあ、今日は今シーズン初めてフェンウェイパークに繰り出す日だというのに・・・。

 化学科のラボのメンバー総勢14人で、レッドソックスの見初めとなる今日は、他のメンバーも一様にがっかりしているに違いない・・・と思いきや、平然と「これでやらないはずがない」とばかりにまったく気にする様子もない。まあ、メジャーリーグは日本のプロ野球のシーズンとまったく同時期に開催されていながら、試合数は162試合と日本のそれより約1カ月分も多い計算になることもあって、少しぐらいの雨で中止にしていると秋口に入って連日のダブルヘッダーなんてことになり兼ねないため、強行することはしばしば。

 果たして、夕方になると少し雨も小降りになり、ラボから一斉に歩いてフェンウェイパークへ。球場のまわりは、これまた今日が中止になるなんてこれっぽっちも思ってもいないファンで溢れかえっていた。

 今日の先発は大家投手。奇遇にも、僕が彼の投げる試合を見るのはこれが5回目にもなる。いわゆる相性がいいというやつ。しかし、これまた奇遇にも、彼の投げる試合を僕が見に来ると、決まって雨が降っているか今にも降り出しそうな天気。ああ、晴れわたった空の下で、軽快なピッチングを見てみたいものだ。

 試合はというと、これまたいつものように初回にヒットを集中して浴びて得点を与えるものの、味方の打線に支えられて、その後は立ち直って6回を2失点。大家投手の見事な今季初勝利を飾る試合をこの目に焼きつけることになった。

 さてさて、今季は実を言うとまだ自分でチケットを取っていないのだけれど、ありがたいことにいろいろな人から一緒にと誘われていて、すでにあと3試合分が手元にある。お気に入りの投手が投げる試合を、一人でじっくりと観戦するのもなかなか乙なものだけれど(今年も3、4試合はこのスタイルで)、今日のようにみんなでわいわいと見るのもまた格別。

 今年もレッドソックスにおおいにリフレッシュさせてもらえそうだ。


Tuesday, April 10, 2001
 化学科のラボでは、先週の1週間で立て続けに論文が4報も採用されたとのことで、恒例のシャンペンが4本も用意されて、いつものように夜のミーティングで振舞われた。今年に入ってから、絶好調という雰囲気で、結果が出ていることに気を良くしたのか、ボスからラボの方針変更のお達しも。

 これまで、ポスドクの休暇は年間3週間と決められていたのだけれど、1週間伸びて4週間ということに。まあ僕は、休暇が伸びたからと言って特にモチベーションがあがることもない、典型的な日本人の気質を持ち合わせているけれども、ラボの雰囲気が良いというのは良いことである。

 さて、今日はMITのホワイトヘッド研究所にあるゲノムセンター所長のEric Lander教授のセミナーがあった。彼は、ヒトゲノムプロジェクトのアメリカの責任者ということで、ホットな話題が聞けそうだと、MITで最も大きな教室はまさにあふれる人でにぎわっていた。

 この先生は、大学では数学を専攻して学位を取っていて、最初に就いたポストはハーバード大学の経営学部の教授という経歴の持ち主。途中で気が変わって生物の分野に移ってきたわけだが、なるほど、どうりで数学的な解釈が多いわけだ。

 それにしても、セレラ社との熾烈な競争にまつわる話や、クリントン大統領を間に挟んでの協定でのエピソードなど、世界を轟かせた話題のその中心人物の話は、とても刺激的だった。演題のテーブルにあぐらをかきながら話し始めたのにも、正直驚いたけれども。


Monday, April 9, 2001
 ちょっと前の話になるけれども、ボストン・マガジンの3月号の特集記事は「給料調査」。ボストンで働く様々な人たちの職種ごとに、その平均的な給料の額を列挙している。

 なんと言っても高給取りは、今年レッドソックスに加入したManny Ramirezで、その年収はざっと24億円。10年前に同じくメジャーリーグで最高額を稼いでいたレッドソックスのRoger Clemens(現在はヤンキース)は約6億円で、ボストン市長の給料の47倍だったそうだが、いまやRamirezの給料は、市長の160倍に。つまり、Ramirezの1試合で稼ぐ金額が市長と同じ約1500万円ということになる。

 さらに例を挙げれば、麻酔科医の85倍、大学教授の193倍、バス運転手の411倍、ダンキンドーナツ店員の1425倍なんだそうだ。

 それから、マサチューセッツ州の最低賃金は、時給6.75ドルとアメリカで最も高いのだけれど、ボストンの生活コストは全米で4番目に高く(ちなみに、ニューヨーク、ホノルル、サンフランシスコに次いで)、ボストンのアパートの平均家賃が1,465ドルという数字が表わしているように、何とも住みにくい街の一つに挙げられてしまっている。

 まあそれでも、世界中からこの街に人が集まってくるのも事実だから、何事にも魅力的な街であることには違いない。


Saturday, April 7, 2001
 朝、ラボに着く直前に何げなく背負っているカバンのベルトの付け根を見ると、なんともそのベルトは何かの拍子に根元から破れてしまっていて、それをかろうじて支えているのは、僅かに残った繊維が2、3本という状況だった。

 このカバンは、実は毎日コンピューターを運んでいるもので、マックのノートブックは重量がただでさえ3kgを超える重さだし、さらには毎日なにがしかの本を一緒に運んでいるので、まあざっと5kgの荷物を毎日えっちらおっちらと運んでいることになる。

 そんなだから、もしかするとこうなるのは時間の問題だったのかもしれないが、もし橋の上でも歩いている途中でこのベルトが切れてしまっていたら、大事なデータともどもコンピューターは川の中へと消えていたかもしれないし、橋の上でなくとも、落としたら最後、そんな重量の物体が落ちた日には木っ端微塵に(ちと、オーバーだ)なっていたやもしれない。

 まあ、確かにカバンのベルトが切れかかっているなんて言うのは、不吉きわまりない出来事だけれども、最悪の事態にならなかったことを思えば、ふと目線がカバンのベルトの付け根に行き、そしてベルトの切れるその瞬間より先にそれに気付いたということは、とてもラッキーだったに違いない。

 そんなことを思っていたら、なんだか幸運に恵まれた1日のスタートに感じてしまったのは、我ながらノーテンキな頭の構造ではある。


Friday, April 6, 2001
 MITがなんとも太っ腹な企画を発表した。向こう2年以内に、500を超える全ての授業の内容を、インターネットを利用して全世界の人が、「無料で」利用できるようにするそうだ。

 この企画が発表されて、ほとんどの学生には歓迎ムードが漂っているけれども、MITはアメリカで最も高額の授業料を要求する大学の一つであるから、「無料で」という発表に戸惑う学生もちらほら。

 まあ、何事も新しいことを始めようとすると、賛否両論あるものだから、この企画が最終的には成功することを願うばかり。

 僕も受けてみようかな。


Wednesday, April 4, 2001
 ここのところ野球の話題が続いていたので、しばらく野球には触れないでおこうと思っていたのだけれど、これが書かずにはいられない「事件」を目の当たりに。

 今季からボストンに移籍してきた野茂投手が、敵地ボルチモアで、いきなりどでかい仕事でデビュー戦を飾ってくれた。自身ドジャース時代に達成して以来2度目となる「ノーヒット・ノーラン」を、メジャーリーグの歴史で最も早い時期での達成となる4月4日の今日、こともなげに成し遂げてしまったのだ(ちなみに、4月7日が開幕日だった時代の開幕戦でノーヒッターに輝いたピッチャーはいる)。いやはや、ボストン市民に向けて、まさにこれ以上ない鮮烈なデビューとなって、偉業を伝えるボストンの夜のニュースは、のきなみ「NOMO, Welcome to Boston」であった。

 ナショナルリーグとアメリカンリーグをまたいでの達成となると、これまでたった3人しかいないのだけれど、その顔ぶれたるや、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンという、野球に親しんでいる人なら知らない人はいないような錚々たるもの。野茂は、この偉人と肩を並べて4人目の両リーグでの偉業達成という金字塔をメジャーリーグに残したことになる(ちなみに、AAのカージナルスとNLのレッズでノーヒッターになったピッチャーがたしかいたはずだけれど、この当時のカージナルスは大リーグが1リーグしかなかった時代なので、両リーグでの達成ではない)。ボストンでは36年ぶりのノーヒッターの誕生だ。

 今日は、ちょっと実験がずれ込んで、野茂の登板日だということを知っていながら、家に辿り着いたのはだいぶ遅かったのだけれど、それでも急いで帰ってみると、あにはからんやレッドソックスの試合は契約番組でしか放送されておらず、ちょっとがっくり。

 しかし、球場の電気系統の故障とやらで試合開始が1時間近く遅れているという情報に気を取り戻しつつ、しかたなくメッツの試合を観戦。けれども、この放送中もしきりに野茂の話題を取り上げていて、なかなか緊張感あふれるものではあった。

 すると、ESPNの粋なはからいで、9回に野茂がマウンドに上がるとすぐさま画面をその契約番組のものに切り替えてくれて、一部始終の(といっても9回だけだけれど)その偉業達成の瞬間に立ち会うことが出来た。そういえば、前回のロッキーズを相手の偉業達成のときも、雨で試合開始が2時間くらい遅れたのだけれど、集中力を切らすまいとするその気持ちの高ぶりが、こんなすごいことを成し遂げる力につながるのだろうか。いずれにせよ、僕はもうかなり感激している。

 ということで、感動に浸りつつ。


Tuesday, April 3, 2001
 安積高校と同じ「21世紀枠」で甲子園に初登場した沖縄の宜野座高校は、わずか人口5000人の村の高校なんてことはみじんにも感じさせず(実際には僕はいっさい映像を見ていないので、あくまでも伝え聞くところの想像でしかないが)、あれよあれよと言う間の大進撃。仙台育英に惜しくも敗れるまで、東海の、近畿の、そして関東の強豪に伍して、見事なベスト4だった。

 宜野座高校といえばラグビーも強いし、十種競技の沖縄大会では全ての種目に優勝して完全優勝するという偉業も成し遂げているし、どうしてまたこんなエネルギーが沸き起こるのやら。同じ山奥の田舎出身の者としては、どんなこともやってやれないことはないというお手本を目の前に見せられているようで、これほど心強いことはない。

 宜野座高校といえば思い出すのが、戸部良也の『遥かなる甲子園』。これは、漫画家の山本おさむによってコミック化され、その後、日本テレビの「24時間テレビ」でドラマ化されたり、三浦友和主演で映画化されたりして、かなり社会的にも話題になった作品だ。双葉社から出版されていたのだが、だいぶ前に原作の方は絶版になったとのことで、とても残念な思いだけれども、マンガの方は同じ双葉社から全10巻の大部として出版されているので、是非に読んで欲しい作品。

 昭和39年の沖縄に爆発的に流行した風疹が原因で、500人もの聴覚傷害児が産まれた。この物語は、そんな彼らの教育のために設立された聾学校で、野球をやりたいと集まった少年たちの前に立ちはだかる壁を乗り越える姿を描いた、実話にもとづいたもの。

 彼らが普通の高校生と同じように甲子園を目指すためには、まず高野連に加盟しなければならないが、当時、特殊学校というただそれだけの理由で、彼らは高野連に加盟すらできないことになっていた。まずはその理不尽な、しかしとても大きな障壁を乗り越えることから、彼らの戦いが始まるのだが、ついに高野連に加盟しても次なる壁が現れ、さらには卒業して社会に出てからもその苦労は続く・・・という、なんとも切ない物語ではある。がしかし、その困難をことごとく克服していく彼らの姿は、「可能性」を信じる限り道は目の前に開かれていることをまざまざと見せてくれる。

 それにしてもその理不尽さたるや。当時の学生野球憲章には、聾学校は高野連に参加する資格がないとされていたばかりか、加盟チームとの試合や、さらには一緒のトレーニングすらできないとはっきりと書かれていたという。ほんの15年ほど前の話である。試合のできない野球部のスタートは、まさに遥かなる甲子園であった。

 そんな困難に立ち向かう姿と、今回の宜野座高校の姿が重なった・・・のではない。『遥かなる甲子園』のモデルとなった「北城聾学校」が、その役目を終えて廃校となることが決まった最後の年の1983年の夏に、硬式野球部もまた甲子園への最後の挑戦に立ち向かったのだが、その最後の年の沖縄県予選で北城聾学校と戦ったのが、実は「宜野座高校」だった。

 北城は4−0で序盤にリードされるもののよく忍び、7回に1点差に詰め寄った上、最終回も一打同点のチャンスを迎えるが、結局4−3で負け。新たな道を切り拓いた、聾学校の硬式野球部の歴史を閉じた。

 当時のナインは、いまや仕事盛りの35、6歳。きっと、この宜野座高校の大活躍を、自分たちの頃と比べての大躍進になぞらえて、また新たにそのチャレンジ精神に火を点けているに違いない。


Monday, April 2, 2001
 今日が締め切りの研究費の申請書を、午前3時すぎに仕上げてホッと胸をなで下ろしたのも束の間、ラボに出向いてから、いざ提出する段になって6部のコピーを作らなければならないことに気付き、慌てて25ページほどの申請書をひたすらコピー。いやはや何とも久々にばたばたと時間が流れた。しかし、まあこれで一安心・・・と言っても書類を提出しただけか。

 さて、いよいよ今日からレッドソックスの2001年のシーズンが開幕。半年ぶりの待ちに待った野球の季節が巡ってきた。期待の大家投手は、昨年までの背番号53から、エース番号の18番をもらっていよいよそのベールを脱ぐ準備がととのった。まあ、この背番号となったいきさつは、大家の誕生日が3月18日で、日本の実家の住所が18番地だからとのことだが・・・なんにせよエース番号には変わりない。もっとも、18番がエース番号というのは実は日本での話で、アメリカでは18番に特別の意味合いはなく、アストロズのアローも、アスレチックスのデイモンも、パイレーツのケンドールも、メジャーリーグを代表するこの顔ぶれは、みんな背番号18のバッターだったりする。

 しかしそれにしても、レッドソックスのオープニングゲームが、ボルチモアと地元開催でないのには目をつぶるとして、何でまた月曜日に始まるのだろう。しかもその最初の試合開始が午後3時とは。全然、見れない・・・。これが、土曜日とか、せめて日曜日とかに始まるなら、否が応にも盛り上がると思うのだけれどねえ。

 これもおそらくテレビ局の陰謀に違いない。メジャーリーグそのものは、実は昨日開幕したのだけれども、行われた試合は、世界戦略の一環(昨年は、東京ドームでカブスとメッツの試合があった)としてのプエルトリコで開幕を迎えたレンジャースとブルージェイズの試合の1試合のみで、これは視聴率を一挙に稼ごうとするテレビ局の思惑の何物でもない。日曜日に野球の試合が1試合しかないとなれば、そりゃアメリカ中でこぞって見るだろうから。

 オリンピックの進行に口を挟むことにとどまらず、アメリカのテレビ局のスポーツへの介入といったら、想像を絶するものがある。だから、野球の試合の進行を支配しているなんてのはもはや驚くには当たらず、審判のプレーボールのコールはテレビ局のディレクターの「キュー」に従っているなんてのは、嘘のような本当の話である。おかげで、テレビで試合を見ていて、それぞれのイニングが終わって切り替わるコマーシャルの間に試合が始まって、テレビの画面がコマーシャルから切り替わったときにはすでにピッチャーがホームランを打たれてマウンドにうずくまっている・・・なんてシーンは、絶対にアメリカでは有り得ない。

 ああ、それにしてもレッドソックスは延長の末に敗戦。ガルシアパーラーは故障者リストに入ってしまったし、鳴り物入りで移籍してきたラミレスもつられて怪我してしまったし、相変わらずマルチネスが投げると打線が沈黙するし。

 まあね、始まったばかりだから。シーズンは残り161試合。まだまだこれからではある。ちなみに、次の試合の先発は野茂とのこと。


Sunday, April 1, 2001
 アメリカは今日から「夏時間」。日本との時差は14時間あったものが、13時間に縮むことに。ちなみにヨーロッパ諸国は、先週の日曜日からすでに夏時間が始まっている。

 この「夏時間」、正確には「Daylight Saving Time」と言って、4月の第一日曜日の午前2時が午前3時にセットされる。アメリカ人に「summer time」などと言ってもたいていは通じないところがミソ。

 この制度は、日本やアイスランドなどほんの一部の国を除いて世界的に採用されているものだけれど、そもそもは1907年にイギリスで始まったもの。まだその歴史は100年と経っていない。

 アメリカでもイギリスからすぐに輸入されたのだけれども、この制度の採用は各州の判断に任され、全州が採用に踏み切ったのは1966年のこと。そして、アメリカ連邦議会で正式に採用が決議されたのは、実は1986年のことというから、本当にほんのちょっと前に一般化した制度ということになる。

 これから1週間ほどは、これまでより1時間ほど早く起きなければならなくなるので、なかなか辛い日々が続くことになるが、まあ総じてこの制度はいろいろな面で合理的であることは確かだと思う。日本の社会になじむものであるかどうかは、即断できないけれど。

 ああそれにしても、昨日のチャイナタウンでの飲茶は、ほんと、おいしかったなあ。



最終更新日:2001年 5月 28日