1999年
11月1日
学会3日目。
サマータイムの切り替え時期であることを考慮しているのか、8時半から始まるセッションは、10時半まで口頭発表が行われ、その後ロビーに用意されている飲み物、食べ物をつまみながら、ポスター発表の会場へ。午後は2時から5時半までびっしりと口頭発表を聞いた後、それぞれに夕食を取り、その後、8時から今日最後のセッションが組まれていた。
今日の午前中には、我がボスの口頭発表があった。
この学会は糖鎖生物学会であるから、当然のことながら生物屋サンが多いのだが、我がボスは正真正銘の合成化学屋である。果たして発表に対してどんな反応があるのだろうな、と興味津々でその会場の一角に座りまわりの様子をうかがっていた。
我がラボは、糖鎖科学の飛躍的な発展をもたらすと考えられる「多糖の全自動合成」を目標に研究を進めているので、こうした学会で発表することによって様々な研究者の意見を聞きつつ、また夢物語と考えられがちなこうした研究が、近い将来現実のものとなることの宣伝もかねている。
ボスの発表が始まると、意外と言っては失礼だけれど、さして難しそうな顔をするでもなくすんなりと事態を把握しているようで、銘々がしかるべきところでうなずきながら発表に聞き入っている。もっとも、参加者の中にはかなりの数の化学畑の方も居たらしく、質疑応答のときには結構辛辣な意見も飛び出したりして、座長が間を取り持ったりする場面も。
ボスはDNA合成機やペプチド合成機の例を引き合いに出して、これらの機械が市場に出回るわずか3年前に原理を発表したグループも、あまり現実のものとして当時研究者に取り合ってもらえなかったが、このケースもその状況に似ているので、とすれば3年後には成功しているに違いない、なんて冗談とも本気とも分からない台詞をはいたりしていた。
まあ、研究者たるもの、注目されることに意味があるのである。
1999年
11月2日
4日間の学会も今日で終了。このあとは、せっかく西海岸に来たことだし、最終便でLos Angelesに向かってしばし観光をする許可をもらっていた。
LAには、8月にボストンを訪れてくれた大学の先輩が暮らしているので、夏のお礼参り(?)という次第。
しかしながら、LAに行く前にもうちょっとSan Franciscoを堪能しようということで、この学会で知り合いとなった日本人のSさん(男性)とSさん(女性)と共に、近場の名所だというLombard Streetへ。なんでも「世界一ひねくれた(曲がりくねった)通り」というニックネームが付いているらしい。
ところが、「近場」という認識が甘かったのか、これぞサンフランシスコ名物とも言える「坂道」を、登れども登れどもなかなか目的地に到着しない。おまけに、やっと到着したと思ったら、目の前に広がる景色は、十分に恐怖を呼び起こすに足る眺めの良いところだった・・・・。
しかし、さしもの高所恐怖症も観光名所ほどの絶景にはおそれをなしたようで、すぐに落ち着いて一安心。やれやれ。
それにしても、この通りを下っていく車を見るにつけ(絵はがきを拝借した写真を参照)、車内での状況を想像したりしてまたまたゾクゾクっとするあたり、この体にも困ったものである。
さて、帰りはちょっと楽をして、これもサンフランシスコ名物のケーブルカーを利用してホテルに戻ることにした。
満杯の客のところへ飛び乗ったものだから、ちょっとだけ車体からはみ出しつつも、ときおり運転手から発せられる「対向車が来るぞお、身をよけろお」という声に恐怖しながら、しっかりと手すりにしがみついていた。
すると突然、ケーブルカーはホテルとは反対の方向に曲がってしまい、早く降りなくちゃ、とあたふたとしていると、交差点で客を乗せるために一時停止。これ幸いと車を飛び降り、やれやれと思っていたが、ふと思い出したことが・・・・。
あれ、運賃を払ってないぞ。どうりで飛び降りたときに乗客がみんなこちらを刺すような眼差しで見てたわけだ・・・・。まあ、この次にサンフランシスコを訪れた際には、一日券でも買って穴埋めをするので(?)、今日のところはどうかご勘弁を。
1999年
11月3日
Los Angeles観光の初日は、大学の先輩がポスドクをしているUCLAへ。
午前中は、ラボのセミナーがあるとのことで、ひとり構内を歩き回ることにしたのだが、これがなかなかに広いのなんの。約3時間の予定時間いっぱいを使って、ようやくぐるっと一周することが出来た。先輩には「一周したの?!」と驚かれたけれど、せっかくだから全部を見ないとね。
午後は、車でGhetti Museumへ。この美術館は、石油王と言われた個人資産家が私費で建設したもので、何とおまけに入場料は一切タダ。高台に広々と建物が建ち並び、一歩そこに足を踏み入れると、どこかアメリカに居ることを忘れてしまいそうな、心地よい空間だった。お金は、こういうふうに使うんだなあと、しみじみ。まあ、そんなお金の使い方を心配する必要はなさそうだけれど。
ところで、今日は我が誕生日であった。いよいよ20代最後の年に突入。2000年も間近である。
1999年
11月4日
休暇も今日でおしまい。早速明日からは、普段の実験三昧の生活が始まる。
ところで、西海岸と東海岸には時差が3時間ある。こちらに飛んでくるときには、飛行機内に6時間滞在した長旅だったけれど、所要時間はたったの3時間。逆にあちらに帰る際には、出発してから9時間ほど時間がかかることになる。
というわけで、今日中にボストンに到着するために、午後1時発の飛行機で帰宅の途に就くことにしていた。
ところが、空港に着いてチェックインを済まそうと、何げなく発着状況を表示しているモニターに目をやると、何とも不隠な文字が映し出されていた。「CANCELED」・・・はて、これは「キャンセルされた」と読むのかな・・・・。
こちらはタダでさえ、飛行機にこれから乗るというので気持ちが高ぶっているのに、火に油を注ぐような言葉が目に飛び込んできたものだから、ますます頭の中はパニック状態である。まあ、このモニターの前で立ちつくしていても埒が明かないので、とりあえず素知らぬ顔でチェックインすることにした。
20分ほどチェックインを待つ長い列に並んだ後、カウンターに出向いて搭乗チケットを手渡すと、担当の係員ときたらちらっとチケットを見るや、事も無げに「この飛行機はキャンセルされちゃったので、別の飛行機に乗りたいと思うけれど、2時間後の次の飛行機にしときますか」とさらりと言ってのける。こうも、平然とされたんじゃあ、文句のひとつも出やしない(そういう手なのかな)。仕方なく、「それでいいけど、2時間後といったらボストンにはいったい何時につくことになるの」と、こちらも負けじと、出来るだけさらりと言ってみた。すると係員、「なに、公共の交通機関の動いている時間内には着くから大丈夫」と、こちらの返事も聞かず、そそくさとすでにチケットの発行手続きに入っていた。
おそるべし、アメリカである。もっとも後で聞いた話では、こうした事態は日常的に起こることで、そんなに驚くことじゃないんだそうだが。
まあ、代償として飛行機のスクリーンのまん前の席(外が見えない)と、空港内のレストランのタダ券を獲得したので、今日のところは経験を積んだということで良しとしよう。
ボストンに着いたのは次の日の日付になったが、かろうじて地下鉄が動いている時間だったので、無事にアパートに帰り着いた。ふう、いろいろあったな。
1999年
11月6日
大学4年のときの卒論実験の指導をしていただいたK先輩は、大学院修了と同時にアメリカに渡り、以来5年余りこちらで生活していた方だが、4カ月ほど前に日本に戻られ研究を続けられている。今日は、そのK先輩をボストンに迎えた。2年半前に先輩の暮らすメリーランドを訪れて以来の再会だった。
空港に出迎えると、すでに予約済みのレンタカーを早速に借り、一路ボストン南方のPlymouthへ。ここは、英国教の迫害を逃れようとする清教徒を乗せたMayflower号が到着した場所で、Thanksgiving Dayの由来となった場所として有名なところである。ちなみに、Plymouthという地名は、1620年にMayflower号が出航したイギリス南西岸の港市の名前に由来している。
ところで、先輩は長くアメリカに暮らしていたので、当然のことながら車をこちらで長く運転していたのだが、僕はまだアメリカでの運転は未経験である。そこで、ボストンの市街を抜けたあたりに差しかかると、体験を兼ねて僕が運転して目的地に向かうことになった。せっかく取得した日本の国際免許証を使わないまま、1年の有効期限が過ぎてしまうのももったいない話であるし、まあ、ボストンにお客さんを迎えたにもかかわらず、助手席に乗って観光地まで案内してもらうというのも変な話であるからして。
いざ、運転をしてみると、これが結構違和感のないのにはびっくりした。もっとも、日本でもほとんど車を運転したことのない、ゴールドカードをもつ正真正銘のペーパードライバーであるので、違和感を感じようがないという話もあるのだが・・・・。まあ、右や左に曲がろうとしてワイパーを動かしてしまうというはよく聞く話だけれど、実際に自分でやってしまって「あらら、ほんとだ」などと、面白がったりして、なかなかに良い体験であった。すっかり慣れたはずの帰り道でも、相変わらずワイパーを動かしてしまうあたり、物覚えが悪いのか、日本の教習所が偉大なのか。ペーパードライバーなだけに、日本の教習所の偉大さに軍配が上がることにしておくかな。
さて、プリマスだけれども、さすがに「アメリカ発祥の地」と騒がれるだけあって、かなりの寒さにもかかわらず、観光客が後を絶たない状態で、まさに観光地に来た気分。ところで、「アメリカ発祥の地」というのは実はアメリカ中至る所にあって、ここを正確に表現すれば、「イギリスから渡ってきた清教徒が、初めて定住に成功した土地」である。この成功は、ワンバノアーグ族という原住民の協力なしには成し得なかったことであるが、「アメリカ発祥の地」とは、いささか原住民を無視した表現であるような。まあ、「Thanksgiving」とは、定住1年目の収穫を感謝すると共に、それを支えてくれた原住民に感謝する祭りであったはずだが、その後の歴史をみれば、すっかり原住民に感謝するなんていう配慮が抜け落ちているのは明らかだけれど。
すっかり日も暮れたので、ハイウェイを使ってボストンに帰ることに。ところが、ちょっと油断したのか、ペーパードライバーだったことをすっかり忘れていた。いきなり、5車線も6車線もあるハイウェイを、すいすいと運転できるはずがないのだ。おかげで、出たい出口を逃すこと数知れず、やっと一般道路に入ったと思ったらアクシデントがあったりして、まあ、アメリカでのドライブ初日にしては盛りだくさんの体験をすることとなった。事故を起こさなくて良かった、とは車を降りてからの率直な感想であった。
1999年
11月8日
今シーズン、初めてボストンで氷点下を記録。地元の人々の話では、1月2月が一番寒いということなので、先が思いやられる。風が冷たいので、体感気温はさらに5、6℃ほど下がるというのもまた悩みの種である。どうりでボストン住民の平均年齢が26歳なわけである。納得。
1999年
11月15日
午後9時をまわった頃、突然火災報知機がけたたましく鳴り響いた。病院で誤報を日常的に経験していることもあって、なんともなしに居たのだけれど、そのうち、警報に負けないくらいにサイレンを鳴り響かせた消防車もやってきたものだから、ありゃりゃ、ほんとの火事かな、とやっと重い腰を上げて廊下に出てみることにした。煙のにおいがしないので、少なくともこの階でないことは確かだ。
廊下にはやはり何事かと顔を出している人が数名。それでも、警報が鳴り止まないものだから、廊下の真ん中ほどに自然にみんなの足が向かう。「きっと誤報だよ」「いや、そうだったらすぐに止まるはずだから、これはにおいがしないので上の階が燃えてるんだぞ、きっと」と、銘々が深刻な会話をしているわりには、なかなかに他人事のような落ち着きぶりである。
結局、大騒がせな誤報だったことが判明したようだけれど、こちらは期せずして同じ階に住む住人のみなさんと仲良くなったのでした。禍転じて福と成す。
1999年
11月16日
昨年の今ごろ、日本では猫も杓子も「獅子座流星群」で大騒ぎだった。結局去年は期待外れに終わってしまったけれど、今日は1年ぶりにその流星群が見られる日で、今年こそはと何日か前からテレビのニュースなどでもしきりに宣伝していた。
「獅子座の流星群」は、流星群の母彗星となっているテンペル・タットル周期彗星の太陽を周回する周期が33年なので、太陽に近づく前後5年くらいに流星群が見られる。この獅子座の流星群は数ある流星群の中でも、過去最大規模の流星を観測したことで知られているもので、1799年には1時間になんと100万個の流れ星が見られたらしい。今年は最大で1時間に1,500個ほどの流星が見られることが予想されているので、それからすればかなり小規模だけれども、過去の観測では、33年、66年、99年という年には流星嵐と呼ばれる大規模な流れ星の雨が見られたということもあって、どうやら1999年の今年、密かに期待する天文ファンも多いようだ。
さて、ボストンではどうだったかというと・・・、観測予想時間の午後11時には気温マイナス4℃、体感気温マイナス13℃と聞いた日にゃあ、とてもその時間に外に出て空を眺める気には・・・・。アパートからの眺めでは、とりたててイベントが起きたような気配はなかったけれど。おうちゃく者に福が訪れないのは、分かっちゃいるけど、こう寒くてはねえ。(後日談・ボストンでは星降る流星群は見られなかったようです)
2001年には最大で1時間に35,000個という流星が見られると予想されているので、その時に期待・・・とは、まさしくおうちゃく者の先送り。
1999年
11月28日
今日はボストン郊外にお住まいのEさん宅で、11月に誕生日を迎えた3人の日本人の方のバースデーパーティーが催され、日頃みなさんにお世話になっている身として、参加させていただいた。
Eさんは日本の大学を卒業するとすぐさまアメリカに渡り、アメリカ人のご主人と共に、以来世界中をまたにかけて暮らしている方である。独立記念日のサッカーの試合を観戦できたのも、実はこのEさんからチケットを譲っていただいて、大学院に通うサッカー好きの息子さんと一緒に出かけたのであった。今日、還暦を迎えるということだけれども、とてもとてもそんなお年には見えないバイタリティー溢れる方で、ボストンのお母さんとしてボストン在住の日本人の方々に慕われているお人である。
さて、当のパーティーには、地元の方と日本人がほぼ半数ずつ30人以上も集まり、かなり盛大に催された。年齢層も、生まれたばかりの赤ちゃんから、お年を召した方までバラエティーに富んでいる。思い思いが持ち寄った料理に舌鼓を打ちながら、時間はあっと言う間に過ぎていった。
Eさんのご主人には初めてお会いしたのだけれど、とても気さくな方ですぐに意気投合。こちらのとりとめのない質問にも、丁寧に答えていただいて、ちょっと恐縮したりしたけれど。ご主人は現在ニューヨークで仕事をされているため、1カ月に1度しか自宅に戻られないとのこと。「アメリカ中を飛び回っていて、家に帰ってくる度に、妻の友達が増えている」とびっくりするやら、感心するやらということをもらしていたけれど、その広い交友のおかげで、僕もこのお宅にお邪魔する度に、新しい方との出合いがあって、感謝することしきりである。
歳をとるのもいいもんだ。
最終更新日:2000年 1月 8日
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