diary


 

1999年
 12月7日
  朝、病院のラボに出向いてみると、な〜んか普段と様子がおかしい。でも、何が違うのかはどうしてもわからない。はて、と首をかしげていると、突然となりの部屋の同僚がやってきて、「今日からもうこの席のJは来ないから。なんでも企業の口を見つけたらしくて、そっちに移ったそうだ」と、さも得意げにまくし立てた。そう言われてみれば、様子が違うのは向かいの席のJの荷物があらかた消えてしまっていることのようだ。

  それにしても見事なまでの早業である。朝早く出てくるボスの時間に合わせて、午前7時前にやってきて、いっさいの身の回りのものを引き払っていったらしい。まあ、一言くらい挨拶があっても良かったような気もするが、いろいろと思いもあったのだろう。ん、この部屋には他に僕しかいないから、ということは、何か気に障ることでもあったかな・・・・。まあ、去る者は追わず。

  というわけで、今日からまたまたひとり寂しく広いこの部屋で実験をすることになってしまった。英語の上達に、無口は最大の敵なんだけどなあ。

 

1999年
 12月9日
   今日はボストン糖鎖生物学懇談会(BGDG)の月例会の日。今日の話題は、マススペクトル(proteoglycanの分析)だったせいか、いつもよりメンバーがちょっと少なく、おまけに僕の知り合いは誰もいないという状況で、はじめなかなか適当な会話の相手が見つからなくて、「今日は一人寂しくディナーかなあ」なんて思っていた。

  しかし、そのディナーがいざ始まってみると、「飲み物は何がいいかな」と優しく声をかけてきた方がいて、見ると60歳は超えているであろう、白髪の威厳あるお方。言われるままに「じゃ、赤ワインを」と答えたら、なんとはるばる向こうの方までワインを探しに行ってわざわざ持ってきてくれ、となりに座ったのだった。

  こちらは、その威厳ある風貌とは裏腹の、なんとも気さくな行動にめんくらいながらも恐縮するばかりで、こんな時はどうお礼を言えばいいんだろう、と考えるもののなかなか言葉が出てこない始末。話をしてみると、案の定ハーバード大の教授という偉いお方だった。

  なんでも日本にはよく行っているらしく、やけに日本の地名に詳しい。おまけに、お前はどこから来たのだと言うので、仙台の南の方の小さな町(ほんとは村だけど)が生まれた場所だと言ったところ、昔ハーバードのラボに来ていた愛弟子が「Kooriyama」という街の大学でラボを構えていて、実は3年ほど前にその街に行ってきたとのこと。ありゃまあ、僕はそこの高校に通ってたんですよ・・・。ってな会話が延々と続き、裏磐梯はきれいだったとか、松島はきれいだったとか、東北大は見晴らしの良いところにあってすばらしかったとか、およそボストンでアメリカ人と話しているとは思えない会話が展開された。しまいには、明治維新のことやら、日本のキリスト教の立場、はたまた、どうして新幹線とかJRの列車とかは1分と違わぬ時間を守って運行できるのかといった話にまでおよび、およそ何のミーティングに参加しているのやらこれではわからん始末。まあ、一応ひととおりは現在の研究についての会話もしたのだけれど。

  なんだか、はじめの不安はどこへやら。はからずも楽しいひとときとなった。惜しむらくは、相手の方の名前が「Henry」さんというfirst nameしか聞き取れず、親しげに話していたものの実は畏れ多い方だったのでは・・・・。今になって緊張してきたぞ。

 

1999年
 12月10日
  MITのラボメンバーによるホリデーパーティーと称するクリスマスパーティーが催され、ボスの住むアパートの最上階にある「スカイルーム」なるパーティールームに一同が会した。このアパートは、MITのラボから歩いて3分ほどのところにあり、チャールズ川に面しているので、川を挟んで対岸にはボストンの夜景がきらびやかに広がっている。

  このパーティーはそれぞれが料理を持ち寄ってのポットラックパーティーだったのだが、そこは多国籍ラボの醍醐味で、実に様々な国の料理を堪能することが出来た。かくして日本からの出展は・・・日本酒であった。まあ、自分で作った料理で腹をこわすくらいの腕前だから、とてもとても食べ物はねえ。しかし、あにはからんや、これがなかなかの酒豪ぞろいの我がラボのメンバーには、かなり気に入ってもらえたようで安心することしきり。

  さて、メインのイベントはクリスマスプレゼントの交換。1週間ほど前にあらかじめくじを引いていて、そこに書かれていた相手に対してふさわしいプレゼントを10ドル以内で準備していた。それぞれに趣向を凝らして、もらった人の反応を見ているだけで結構楽しい。

  いよいよ自分の番になり、プレゼントの包装をアメリカ人ばりにバリバリと破いて中身を見てみると・・・レッドソックスの野球帽であった。ははは、野球好きはもう知れたこととみえる。ありがたい。しかも、すでに一つ持っている帽子とは違うタイプのものとはなかなかにナイスな選択。さて、誰が贈ってくれたのか、とみんなに促されて当てようとしたのだけれど、思いつく人はことごとくはずれ。仕方なくギブアップして本人に名乗り出てもらうと、なんと先月から合流したばかりの大学院生だった。なんでも、ふだんMITに居ることの少ない僕のことをよく知らなかったので、何人かの人に相談したのだそうだが、誰に聞いても口をそろえてレッドソックスの物なら大丈夫と言われたそうだ・・・。

  1次会が終わるとその階下のボスの部屋になだれ込んで2次会の始まり。15人ほどが、独り者のボスの部屋で飲めや歌えやの騒ぎとなった。あいかわらず、我がボスは給仕と化して忙しく振舞っていたけど。この騒ぎ、僕は地下鉄の最終時間があるため、12時を過ぎたところで帰ってしまったのだけれど、どうやら2時ごろまでつづいたらしい。ほんとに泰西の人々はタフである。

 

1999年
 12月17日
  病院のラボの同じ階にチェス強豪のロシア人がいる。ある日ふとしたことから世界のチェスの話になり、日本の将棋にも興味があると言うので、それ以来暇を見つけては将棋を教えている仲である。彼・Eの物覚えの早さときたら驚かずにはいられないほどで、おまけに生来の負けず嫌いらしく、めきめきとその腕前を上げている。

  昨日もいつものように将棋をしていたところ、突然Eから「明日家に来ないか。ワイフが会いたがっているので」との申し出。そりゃあもう喜んで行きます、とすぐさま答えたのは言うまでもない。

  ということで、今日はロシア人のお宅にお邪魔することとなった。まず、その会いたがっていたという奥さんとのご対面。Eはマスターを取って2年目の青年で、知り合いの中では唯一僕より年下なのだが、その奥さんはさらに若そうだ。ちょっと緊張しながら(?)自己紹介をすると、「Tomioってなかなか言いずらいね」と言うので、「シェークスピアのロミオとジュリエットは知っているだろ。そのミオと言うつもりでミオと言えば、大丈夫」と言ったら妙にうけて、それから名前を呼ばれるたびに「おお、ミオ」ってな感じで呼ばれることになってしまった。

  それにしても、Eの部屋は日本製品で溢れていた。2台ある車もHONDAとSUBARUだし、SONYやらYAMAHAやらTOSHIBAやらが、いたるところに鎮座していた。むしろ、僕の部屋の方が日本製品の数では負けているんじゃなかろうか。

  しかし、もてなしはやはりロシア料理。出された物のどれもが、初めて見るもの味わうものだったけれど、特にウクライナの赤ワインに○○という(名前が思い出せない)穀物は、なかなかにグッド。食材は普通のスーパーで手に入れることが出来るというから、ロシア人社会もかなりアメリカに溶け込んでいるに違いない。

  なかなかの妙味と共に、まだアメリカに来て2年ちょっとだとは思えない二人の流暢な英語に聞き入りながら(ちなみに奥さんはフランス語も堪能らしい)、時の経つのを忘れて過ごしたひとときだった。まあ、たとえ英語は流暢に話せなくても、輪の中に溶け込むことは出来るのは、言葉が人をつなぐのではなく、気持ちが人をつないでいくということなんだろう、と再認識した次第。

 

1999年
 12月26日
  街の華やかなクリスマスとは、とんと縁のない実験三昧の生活を送って一夜開けた今日、同じ東海岸のフィラデルフィアから東北大学の同級生だったK夫妻をボストンに迎えた。

  彼らはやはり今年の春からアメリカに渡ってきていて、野口英世がヘビ毒の研究をしていたことで知られるペンシルバニア大学で研究をしている。旦那のKとは大学1年のときから同じ道を歩んでいる仲だから、10年来のつきあいということになる。

  空港で彼らを出迎えた後、ホテルに荷物を預けるとまずは本拠地のMITとHarvardの観光へ。Kは有機合成に携わる研究をしているので、僕のいるMITの化学科についても詳しい。こちらが案内しているつもりだったが、次から次にKの口から出てくる有名な教授の名前を聞きながら、「そんな有名な人だとは知らなかったなあ」なんて、逆に教えられてしまった。なんの予備知識もなしに普段その方々を見ていると、どう見ても普通のおじさんにしか・・・・。こういうのを勉強不足というのだが。

  ひとしきりアメリカでの生活の様子や、苦労話などを交換しながら、しばし仙台に居るような雰囲気を堪能した。身近に体験を共有できる友がいるというのはいいもんだ。さあて、今年も残りわずか。ラストスパートで頑張るかな。

 

1999年
 12月29日
  聖路加国際病院の理事長で、聖路加看護大学の学長でもある日野原重明さんといえば、知る人ぞ知る医学界の重鎮である。今年米寿を迎えられてますますお元気で、250を数える著書のみならず、様々な場所での提言には耳を傾けさせられることが多い。かくゆう僕は、高校の新聞部時代、何度となくその著書から引用をさせてもらっていた思い出の人でもある。

  その日野原さんが僕のラボのある病院を訪れ、ここで働く日本人の方々と昼食会を開くという。なんでも数年前からハーバード大学の客員教授を務めているらしく、1年に一度アメリカを訪れているということだ。90歳を間近に控えてなおその行動力や、ただおそれいるばかりである。

  新米ながら末席を汚させていただいて(といいつつ、実際に座った席は日野原さんの目の前だったりするのだが)、2時間余りお話をうかがうだけでなく、直接会話をさせていただいたのは大変貴重な体験だった。なかでも印象に残っているのは、アメリカに来る少し前に仕事を片づけるために徹夜をされたという話と、日本の大学教育・研究体制をなんとしても改善していかなければならないという話。今でも60年来の5時間睡眠を続けているというから、まさに超人という名にふさわしい方に違いない。

  我が身に目を転じてみると、若さがとりえと思っていたのもおこがましい。まだまだ修行が足りないようだ。超人の域に達することは出来なくとも、先達の声の届くところまではせめて行ってみたい、とは身の程知らずの浅はかさかな。まあとにかく、日々精進。

 

1999年
 12月31日
  いよいよ今日は大晦日。1999年、1900年代、そして1000年代最後の日となった(アメリカでは20世紀最後の日と報道されているが、異論多数なのであえて言及しない)。ボストンでは夜から「2000 First Night」と称して様々なイベントが企画されている。

  僕はと言えば、今日の明け方午前4時ほどに、突然の激しい腹痛。前日に食べた卵がなにやら怪しい。まあ、激動の今年を締めくくるにふさわしい最後の日となった。あまりのタイミングの良さに、「こりゃ傑作」なんて苦しみながらも不敵な笑みを浮かべたりして、不気味な時間を過ごした。もしそんな姿を誰かが見ていたら、これぞジャパニーズスマイル、訳がわからんと頭を抱えたかもしれない。

  まあ、幸いにも4時間ほどで痛みもおさまり、何事も無かったかのようにラボに出向いて今年最後の実験に汗が流れた(?)。しかし、このまま予定していたボストンの新年のカウントダウンに繰り出すと、さすがに路頭で倒れるやも知れず、仕方なく予定をキャンセルしてアパートでひとり年を越すことに。テレビをつけると、刻々と世界の至るところで2000年を迎えており、その映像が映し出されていた。我が日本は、あまりに普通のいつもの正月のようで逆に目立っていた気がしたけれど、他の国はまさに「狂乱」という言葉がふさわしいくらいのお祭り騒ぎであった。

  さて、ボストンはと言えば、普段は年越しの瞬間に打ち上げるだけの花火が、その前座として午後7時から華々しく打ち上げられるなど、まさに200万人を集めた狂乱の象徴のニューヨークに負けじとにぎやかそうだ。

  そうしているうちに、僕にとっても激動の1999年は静かに幕を閉じた。来年はもうちょっと落ち着いた暮らしができることを期待しつつ。


最終更新日:2000年 1月 8日
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